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61 明元寺
概要・良寛とのゆかり
浄土真宗西本願寺派の寺。扇屋中川家の菩提寺である。明元寺境内に同寺の寺中である養徳寺の住職の墓があり、その墓石に良寛書「一蓮塔」が刻まれている。中川権太夫の墓もある。(中川権太夫とは中川家当主に代々伝承される名前である。)
永禄年間の頃、信州に有った同寺は川中島の戦いを避けて、直江家を頼り与板に移った。当初は直江家の上与板城下の山沢の地に有ったが、牧野氏の時代に現在の場所へ移った。
同寺は与板最大の檀家数を誇り、同寺の墓石には良寛書『一蓮塔』が刻まれている。中川家の菩提寺でもあり、墓石も残されている。
当初、同寺の壇頭であった割元新木家は、浄土真宗内部の争いや、士分にとり立てられたことから、曹洞宗の徳昌寺を菩提寺にした。
全景写真
詩歌碑・像
一蓮塔墓碑:文政12年(1829)建碑
逸話
塔の字は石偏となっている。良寛は土偏と書かずに石偏で書いたことを指摘され、石に書くのだから石偏でよいではないかと言ったという。
墓碑(中川権太夫)
与板の商人扇屋中川家は備前屋に次ぐ商人であったが、寺院の紛争により勢力を落とした。
四代当主「権大夫・弥五兵衛・幻溟」に割元新木家十一代「勝富」(以南の兄)の妹「みな」が嫁ぎ、その子「都良」は鈴木牧之と交遊した。
良寛の弟「由之」は晩年、叔母を頼って中川家邸内に隠居所を建てて移り住んだ。
中川家から、後に渡航してビール醸造の先駆となった「中川清兵衛」が出た。