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出雲崎町の耕地を紹介します。
山の谷あいに耕地が広がる出雲崎町
出雲崎町の耕地の様子
17世紀後半、松尾芭蕉が奥の細道の旅で 「荒海や佐渡によこたふ天河」の句を詠んだ地として、また18世紀中頃、橘屋の長男として生まれた良寛ゆかりの地として、天領の里として有名な出雲崎町の耕地は、西山・三島両丘陵の斜面と島崎川の本流及びその支流の流域や谷あいに分布しており、広い耕地には恵まれてはいませんでした。当時、稲を育てるための大切な用水は、渓流水を利用していましたが、それでも水が不足していたことから、たくさんのため池をつくったり、島崎川を細い木の枝を集めた粗朶などで閉め切る堰などをつくって、水を引いて耕作をしていました。
戦後は、人口が増え、耕地が不足しはじめました。
第2次世界大戦後、人口が急増し、山すそまで耕地が広がりました。中山間地であるこの地域の耕地は、隣地の所有者と共同で小規模な耕地整理から始まり、昭和40年代後半に農作業の効率化と生産性の向上を目指して、本格的な耕地整理が、藤巻地域から開始されました。平成になり、上野山、上中条、下小竹、柿木、滝谷などでも開始され、現在、神条、吉川地域で大規模な耕地整理が行われています。
島崎川に設置されている沢田堰