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1 阿賀野川の河道の変遷

印刷 文字を大きくして印刷 ページ番号:0058275 更新日:2019年3月29日更新

 阿賀野川の延長は210kmで、日本で10番目の長さです。源流は、栃木・福島県境の荒海川に発し、支川には福島県の猪苗代湖からの日橋川、また群馬県側からは尾瀬の水を受けた只見川が阿賀野川に合流し、県境を越えると阿賀野川となっています。この阿賀野川水系は全国でも有数の水力電源地帯で、ダム発電所が55カ所もあります。その発電総量は柏崎・刈羽原子力発電所にある4機分の発電量約400万キロワットに相当します。

窪川原付近の阿賀野川蛇行の痕が残る地形図
窪川原付近の阿賀野川蛇行の痕

 阿賀野川は、新潟県に入ると阿賀町を流下し、五泉市馬下を扇頂部に扇状地を形成して越後平野を流下しています。この馬下から河口までの35kmの区間には、暴れ川だった阿賀野川の蛇行の痕跡を数多く見つけることができます。代表的な場所としては阿賀野市水ヶ曽根付近や窪川原付近、新潟市北区の十二前付近にその痕跡をはっきりと見ることができます。古阿賀といわれる阿賀野市窪川原は、特に時代の変遷を見ることができます。

変遷のイメージの画像
変遷のイメージ

 左図1は正徳3年(1713)の頃の河道で、阿賀野市六日野・月崎・中潟を流れていました。洪水や松ヶ崎の開削(享保15年)などによって蛇行部分が自然の力でショートカットされ、取り残された河道が三日月湖で、これが百津潟です。その後も河道の蛇行部分がショートカットされて、左図2の京ヶ島の河道が残されて三日月湖ができ、さらに焼山付近の河道は大正4年(1915)から始まった阿賀野川の大改修工事によって、下里・窪川原を人工的に締切り、焼山の三日月湖ができ現在に至っています。

掘削作業で活躍したエキスカベーターの写真
掘削作業で活躍したエキスカベーター

 この大改修工事は、雪の降らない春から秋にかけて工事を急いでしましたが、今のように大きな掘削機械も普及していなく、掘削機械エスキカベータ、トロッコ、近隣住民による人力作業が中心でかなりの重労働を強いられました。また川付近では当時6月から10月にかけてツツガムシが大量に発生し、命を落とす人も数十人いたと言われています。
 なお、第2次大戦中の食糧増産時代から戦後にかけ、各地にあった三日月湖は埋め立てられて開田され、現在は大部分が耕地となっています。

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