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4 胎内川の開削
胎内川扇状地のイメージ
胎内川は、下館付近を扇頂とする東西7km、南北18km、約63立法キロメートルの県内最大の扇状地で有名です。
胎内川の開削は江戸時代初期から提案されていましたが、実現したのは、明治21年でした。
開削以前の胎内川は、日本海に河口をもたない「暴れ川」で、春の雪解け水や雨水は、日本海側の砂丘にせき止められ、いつも洪水を引き起こし、その水は荒川の河口まで蛇行して流れていました。
宮原泰次郎(1819~1891)
文政2年(1819)、胎内市の吉田家に生まれた宮原泰次郎は、地域住民の長年の水害の苦難解消と瀬替えによる旧河川敷地約100ヘクタールの開墾が見込まれることを理由に各地域の惣代の意見をまとめ、県に何度も嘆願書を提出し、明治20年5月に、ようやく工事が許可されました。
胎内川分水工事前の川筋と切り落とし計画図
しかし、その許可条件は、すぐに工事着手して250日で完了させること、身元保証として工事費の一部を補償金として納めること、この工事により損害が発生したときはその補償をすることなど、厳しい条件をつけられ、宮原泰次郎は私財を投入したほか、工事資金の調達に奔走しました。
工事(延長1.1km、幅108m、深さ5.5m)は7月に着手したあと、数々の苦難を乗り越えながら翌年の10月の竣工式を迎えました。当日は余興として数10本の花火と手踊りの催し物が開催されたといわれています。
旧黒川村の羽越水害の状況
この工事で胎内川周辺は、洪水被害が大幅に軽減され、お米の収量をさらに増やそうと耕地整理が明治30年代から開始されました。
なお、昭和42年の羽越水害をきっかけに、胎内川では洪水被害の軽減を計るため、治水対策を進めてきました。
現在建設中の奥胎内ダム
県では昭和52年に胎内川ダムを完成させ、現在新たに奥胎内川ダムを建設中です。この2つのダムは下流地域を洪水被害から守り、渇水時には河川流量の正常な機能を維持し、胎内市への水道水の供給のほか、最大出力2600kWの発電を行う多目的ダムの役割を担っています。