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【上越】「上越地域における新田開発のあゆみ(用水編)」 を紹介します
(4) 西中江・稲荷中江用水
西中江と稲荷中江のイメージ(上越市史通史編より引用)
稲荷中江用水は、関川の左岸の平地を南から北に流れ、飯・藤新田・中屋敷・大豆地域の耕地約140ヘクタールを潤す用水路です。この用水の前身は西中江で、稲荷中江用水の水路は西中江下流の水路を利用したものです。
寛文12年(1672)に高田藩家老、小栗美作によって完工したといわれている西中江用水は、妙高市十日市堂庭地内の矢代川を堰き止め、用水を引水していました。
しかし、矢代川は夏になると毎年のように水がなくなることから、人々は豊富な関川から水を引いて加水したいと考えていました。
明和8年(1771)、西中江の人々は関川から取水している高柳用水(のちの参賀用水)を延長して渋江川に導水し、これを西中江に結ぼうと計画しましたが、高柳用水の下流、妙高市西条地内の関川から取水していた中江用水組の人々から水量が減ることを理由に反対され、実現しませんでした。
これを受け、天明期(1781~1789)に西条取水口より下流の妙高市関川町(旧二子島村)地内の関川から取水する新江の開削が行われたほか、上越市島田上新田地内の関川に取水口を設け、矢代川へ用水を流入させ、さらに矢代川から取水し、上越市大貫地内で西中江に合流する新江が開削されました。
木島地内を流下する稲荷中江(右)
しかし、この二つの新江は維持管理費負担に耐えかねる下流部の人々から取り潰し願いが出されたり、予定していた水が下流まで到達しなかったことから、建設後20年程度で廃止されました。
文化6年(1809)に、これまで天領であった木島・広島地域が高田藩領扱いとなり、高田下小町の塚田五郎右衛門は、水量が少なかった西中江の水量を確保するため、従来あった島田新田地内の取水口より上流、妙高市広島地内の関川から水を引く工事を願い出て、文化9年(1812)に完了しました。以来、この用水を「稲荷中江用水」または「塚田用水」というようになりました。この用水取入口は、明治3年(1870)にさらに上流の大熊川が関川と合流する付近(広島地内)に移され、安定した用水確保が可能となりました。
平成12年に完成した関川頭首工
草堰であったこの関川取水口(頭首工)は、昭和14年(1939)に災害復旧事業で石張り取水堰に改良されたほか、ここから下流の矢代川までの導水路も改修(昭和11年~昭和13年)されました。また、これまで矢代川を平面交差し草堰で取水していた施設も、昭和15年(1940)に矢代川の下をくぐる用水サイホン構造(長さ88m)に変更されました。
戦後になり、稲荷中江用水は昭和23年(1948)から県営工事で改良され、矢代川から滝寺・茶新田までの7.3kmの用水が石積みに改良されたほか、矢代川の頭首工もコンクリートの固定堰になりました。
昭和50年に附帯県営で改修された矢代川頭首工
しかし、石張りになった関川頭首工は、昭和39年(1964)の融雪水、7月の洪水により決壊・流出し、翌年災害復旧事業で新しい頭首工に造り替えられ、その後国営関川農業水利事業で、頭首工(ゲート3門、下流の護岸)と稲荷中江幹線用水路1.6kmの改修が行われました。なお、この頭首工も平成7年(1995)の7月11日水害による河川改修の一環として、b31m×h2.55m×1門、b31m×h2.65m×2門の現在の頭首工に造り替えられました。
また、戦後に県営で造られた矢代川頭首工は、昭和48年(1973)からの附帯県営事業(~平成1年)で施設の老朽化対策、用水の安定供給を目的として、昭和50年(1975)に改築されたほか、土水路・石積みなどで造られた稲荷中江用水も、国営事業や附帯県営事業でコンクリート3面張りに改修され、現在に至っています。