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【長岡】北越戊辰戦争ゆかりの地を紹介します(4 「西軍(新政府軍)上陸の地」、「維新の暁鐘」、「長岡城址」、「河井継之助記念館」)
1868年(慶応4年)、京都近郊の鳥羽伏見で同盟軍(東軍)と新政府軍(西軍)が衝突し、戊辰戦争の火蓋が切られました。京での戦いに勝利を収め、江戸城を無血開場させた新政府軍は、反抗勢力を制圧しようと各地へ軍隊を送りました。戦火が関東、東北、北海道へ広がる中で、現在の新潟県においても「北越戊辰戦争」と呼ばれる激しい戦いがありました。
特に軍事総督、河井継之助率いる長岡藩は、同盟軍としておよそ3か月にもわたる熾烈な攻防戦により新政府軍を脅かし、その戦いぶりは後世にまで語り継がれています。
北越戊辰戦争ゆかりの地は、司馬遼太郎氏が河井継之助を主人公に執筆した小説『峠』にも描かれ、多くの歴史ファンを魅了しています。
長岡地域振興局管内を中心に、北越戊辰戦争の舞台となった場所を御紹介します。
西軍(新政府軍)上陸の地(長岡市)
1868年(慶応4年)旧暦5月、榎峠、朝日山の争奪戦では、長岡藩が加わった同盟軍が優位に立っていました。この戦局を打開するため、5月19日(新暦7月8日)の早朝、視界を遮るほどの濃霧の中、新政府軍が梅雨の濁流あふれる信濃川を渡河し、長岡城下に奇襲を仕掛けました。
中島に上陸した部隊は、二手に分かれ、周辺の民家や兵学所に火を放ちながら長岡城下を進撃したとされています。上陸した付近には、「西軍上陸の地」として、戦死者の墓と慰霊碑が立っています。
(参考文献:新潟日報社「戊辰戦争140年中越の記憶」取材班 『戊辰戦争140年中越の記憶』 新潟日報事業社 平成21年7月
長岡市観光企画課 『戊辰・河井継之助ゆかりの地ガイドブック』)
「西軍(新政府軍)上陸の地」
所在地:長岡市中島1―10-17
交通 :長岡駅大手口からバス10分、中島2丁目下車で徒歩1分
西軍(新政府軍)上陸の地
維新の暁鐘(西福寺)(長岡市)
新政府軍が上陸した場所近くの西福寺の境内に、敵の侵入を知らせるために長岡藩士がつき鳴らした鐘があります。城下に迫る危機を知らせる警鐘は、長岡に新たな時代の到来を告げたとして「維新の暁鐘(ぎょうしょう)」と呼ばれています。
(参考文献:新潟日報社「戊辰戦争140年中越の記憶」取材班 『戊辰戦争140年中越の記憶』 新潟日報事業社 平成21年7月)
「維新の暁鐘(西福寺)」
所在地:長岡市渡里町3-21
交 通:長岡駅大手口から徒歩10分
西福寺「維新の暁鐘」
「西福寺」についてはこちらをクリックしてください(長岡市のホームページにリンクします)<外部リンク>
長岡城址(二の丸跡)
敵兵が城下に侵入した知らせを受け、長岡藩軍事総督の河井継之助は、摂田屋村の本営からガトリング砲一門を馬に引かせて城下に駆けつけました。長岡城大手門入口で継之助自らガトリング砲を撃って応戦しましたが、主力を榎峠、朝日山に置いていた長岡藩は持ちこたえられず総崩れとなり、5月19日(新暦7月8日)、長岡城は落城しました。
長岡城は、白狐の教えで形を決めたという築城伝説があり、その独特の構えから「苧引形兜城(おびきがたかぶとじょう)」と称され、「御三階(おさんがい)」と呼ばれる櫓が天守閣の役割を果たしていましたが、北越戊辰戦争で焼失し、現在はその姿を見ることはできません。
アリーナやナカドマ(屋根付き広場)、市役所が一体となった全国初の複合施設として注目を集める、長岡駅前のシティホールプラザ「アオーレ長岡」。多くの人々でにぎわうその一角に、長岡城の二の丸跡を示す石碑があります。石碑の奥には、築城を導いた白狐を祀ったという城内稲荷神社が建っています。本丸跡は、現在の長岡駅付近になります。
(参考文献:稲川明雄 『風と雲の武士』 恒文社 平成22年12月
長岡市観光企画課 『戊辰・河井継之助ゆかりの地ガイドブック』))
「長岡城址(二の丸跡)」
所在地:長岡市大手通1
交通:長岡駅大手口から徒歩3分
長岡城址(二の丸跡)
城内稲荷神社
「長岡城址」についてはこちらをクリックしてください(長岡市のホームページにリンクします)<外部リンク>
河井継之助記念館(長岡市)
河井継之助は、1827年(文政10年)旧暦1月1日、長岡藩の中堅藩士、河井代右衛門秋紀の長男として生まれました。名を秋義(あきよし)、蒼龍窟(そうりゅうくつ)と号しました。
父の代右衛門は勘定頭を務める一方、茶の湯の宗徧流師範でもある教養人で、良寛とも交流がありました。良寛が河井家の茶室「聴松庵」を訪ねた際に詠んだ漢詩が残されています。
陽明学を学んだ後、継之助は江戸や九州に遊学し、見聞を広めます。中でも備中松山藩(岡山県高梁市)の危機的な財政を立て直した陽明学者、山田方谷を師と仰ぎ、多大な影響を受けました。
1865年(慶応元年)、外様吟味役に就任すると、継之助は借金に苦しんでいた長岡藩の改革に乗り出します。藩士の禄高是正や教育改革・兵制改革を行い、賄賂・賭博・遊郭を廃止。武士の不当な取り立てを罰して農民を救い、川税や株の特権を廃して商業振興を図りました。
こうして長岡藩を改革した継之助は、藩内で異例の昇進を遂げるとともに、1868年(慶応4年)、豊富な軍資金をもとに、当時日本に3門しかなかったと言われているガトリング砲を2門購入し、「武装中立国」実現を目指して長岡藩の軍事力を増強し、怒濤のように押し寄せる新政府軍に対峙していくこととなります。
「河井継之助記念館」は、継之助の屋敷跡にあった建物を改修し、長岡市制100周年を記念して2006年(平成18年)にオープンしました。展示室からは、継之助が暮らした当時の面影が残る庭を眺めることができます。継之助の旅日記『塵壺(ちりつぼ)』や、司馬遼太郎氏の小説『峠』の自筆原稿のほか、ガトリング砲の複製等継之助ゆかりの品々が展示され、継之助の人間像と業績に迫ることができます。
(参考文献:稲川明雄 『決定版 河井継之助』 東洋経済新報社 平成24年8月
長岡市観光企画課 『戊辰・河井継之助ゆかりの地ガイドブック』)
「河井継之助記念館」
所在地:長岡市長町1-甲1675-1
交通 :長岡駅大手口から徒歩5分
休館日:12月28日~1月4日
開館時間:午前10時~午後5時
観覧料:大人200円、小中学生100円
河井継之助記念館
河井継之助邸趾の碑