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【長岡】北越戊辰戦争ゆかりの地を紹介します(6 「永閑寺」「道の駅 パティオにいがた 川湊のまちなみ・戊辰戦跡ジオラマ」)
1868年(慶応4年)、京都近郊の鳥羽伏見で同盟軍(東軍)と新政府軍(西軍)が衝突し、火蓋を切った戊辰戦争は、関東、東北、北海道へ広がる中で、現在の新潟県においても「北越戊辰戦争」と呼ばれる激しい戦いがありました。
特に軍事総督、河井継之助率いる長岡藩は、同盟軍としておよそ3か月にもわたる熾烈な攻防戦により新政府軍を脅かし、その戦いぶりは後世にまで語り継がれています。
北越戊辰戦争ゆかりの地は、直木賞作家司馬遼太郎氏が河井継之助を主人公に執筆した小説『峠』にも描かれ、多くの歴史ファンを魅了しています。
長岡地域振興局管内を中心に、北越戊辰戦争の舞台となった場所を御紹介します。
永閑寺(見附市)
長岡城を失った長岡藩兵は、1868年(慶応4年)旧暦5月21日(新暦7月10日)、桑名藩の預り領であった加茂に入りました。
翌日から翌々日にかけ、会津藩本陣の市川邸において、会津藩、米沢藩、桑名藩、上山藩、村上藩、村松藩及び長岡藩の各指揮官が集まり、奥羽越列藩同盟軍のはじめての作戦会議が開かれました。長岡藩軍事総督の河井継之助はここで、見附を占領し、長岡城を奪還することを主張しました。
旧暦6月2日(新暦7月21日)、継之助は新政府軍が占領していた今町(現・見附市今町)に攻め入りました。
山本帯刀を大将とする牽制部隊が本街道を進軍して敵の目を引きつける一方、継之助自ら主力隊を指揮して刈谷田川の堤防を進み、側面攻撃を開始しました。8時間に及ぶ激戦の末、戦いは同盟軍側が勝利しました。
今町ではその日の朝から戦争が始まるといううわさが飛び交い、町民は避難の準備に追われていました。そこへ新政府軍が「我々が厳重に守るため、絶対に逃げたり家財を持ち出してはいけない」と厳命したため、町民はやむを得ずとどまりました。しかし正午頃に戦闘が開始されると砲弾が町内に落ち、町民は恐怖に震え、町内は混乱を極めました。午後6時半頃には全町が火の海となってすべてが灰となり、今町の人々は深く傷つきました。
今町の永閑寺は、前年本堂を建て替えたばかりでしたが、新政府軍の本陣となったため、住職の懇願にもかかわらず、本堂、経蔵、太子堂などのすべてが同盟軍によって焼き払われました。再建されたのは1887年(明治20年)で、有栖川宮熾仁親王から「永葉閑雅寺」の扁額を賜りました。
(参考文献:稲川明雄 『風と雲の武士』 恒文社 平成22年12月
見附市地域経済課 『今町歴史散歩』 平成28年1月)
「永閑寺」
所在地:新潟県見附市今町2丁目3-34
交通: 見附駅からバス17分、道の駅パティオにいがた下車で徒歩10分
永閑寺
道の駅 パティオにいがた 川湊のまちなみ・戊辰戦跡ジオラマ(見附市)
年間100万人が来場する道の駅「パティオにいがた」には、産直マルシェや農家レストラン、平成16年の水害状況を紹介した「防災アーカイブ」が設置されているほか、ディキャンプができる広場等があり、多くの家族連れでにぎわっています。
その館内には、今町のまちなみを1000分の1で再現したジオラマが設置されており、現在のまち並みに戊辰戦争の激戦地や、河川の変遷などを重ねて紹介されています。
「道の駅 パティオにいがた」
所在地:新潟県見附市今町1丁目3358
交通: 見附駅からバス17分、道の駅パティオにいがた下車
道の駅 パティオにいがた
川湊のまちなみ・戊辰戦跡ジオラマ