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農業水利施設の歴史探訪シリーズ vol.11 『西頸城を潤す山腹水路~東側用水路、西側用水路、釜沢用水路~』
施設概要 【にいがた農業水利施設百選(整理番号8)】
地域の概要
糸魚川地域は、海岸線までせり出した山地と数本の河川により櫛形の平地が形成された地形を呈しており、新田開発を進めるため農民らにより山腹水路がいくつも造られました。山の斜面には、複雑に入り組んだ等高線に沿って延々と流れる土水路や隧道が今なお多く残っています。
現在、山腹水路を流れる水は農業用としてだけではなく、防火用水や消雪用水としての役割も担っており、地域に欠かせない水路となっています。
インタビュー協力
松田 學さん(元糸魚川土地改良区職員)
施設の歴史
東側用水路(明治12~25年造成 延長22km 受益面積83ha)
東側用水路は明治12年に関係集落が計画を立て着工しましたが、極めて難工事であることや物価の暴騰があったことから一時中止に追い込まれました。
その後、関係集落の対立や費用負担の問題があり、明治21年になってようやく計画が再開され、明治25年に完成しました。
水路の造成には提灯(ちょうちん)測量が用いられていたそうです。水平を出すことが困難だった時代、水を張ったタライに見通し器具を浮かべ、提灯の明かりを上下させることで高低差を測り、水路を造ったと言われています。
また、地域では先人の偉業や願いを大切にする思いから、提灯測量を再現しライトアップするイベントも開催しています。
東側用水路
水路の造成には提灯(ちょうちん)測量が用いられていたそうです。水平を出すことが困難だった時代、水を張ったタライに見通し器具を浮かべ、提灯の明かりを上下させることで高低差を測り、水路を造ったと言われています。
また、地域では先人の偉業や願いを大切にする思いから、提灯測量を再現しライトアップするイベントも開催しています。
山腹水路ルート(白線)
ライトアップイベント
西側用水路(明治23~30年造成,延長18km,受益面積85ha)
崖の上を流れる西側用水路
西側用水は断崖を縫って堀割られた水路で、当時としては一大水路であり難工事でした。完成までに大変な苦労があり、地域ではその功労者「斉藤嘉平」氏の話が語り継がれています。
明治10年頃、主要な産業が農業しかない郷土を発展させようと関係集落で何度も話合いが行われ、開墾と用水整備の必要性が叫ばれました。
険しい山の中にある手堀隧道
しかし、当時は10数kmの山腹水路を造ることはあまりにも壮大な計画で、常に話が挫折するような状況でした。
そのような状況の中、斉藤嘉平氏は早川の上流に堰を設けて開墾地に水を引き入れるという途方もない構想を実現するために、たった一人で山奥深くにもぐり込み、4年もの歳月をかけて測量を行いました。当初は誰もが無理なことだと言っていましたが、斉藤嘉平氏の強い思いと努力に心動かされ、計画は実行に移されました。難工事のため犠牲者が続出し、8年で延べ27,000人が従事したと言い伝えられています。
学生ボランティアとともに草刈り
水路は管理溝畔がないところも多く維持管理に大変苦労しますが、現在、地域では学生ボランティアなどの支援を受けながら維持管理活動を行っているそうです。
釜沢用水路(明治25~昭和18年造成,延長10km,受益面積90ha)
釜沢用水路は、大和川地域と真光寺地域に送水しており、分水工が完成する昭和18年までは干ばつ時期の水争いが頻発に起きました。水の見張り番の人は、夜中に水を増やそうとやってきた人に対して「水をたくさん取るなら俺を殺してから行け」と言って水を守ったそうです。
釜沢用水路
番いたの分水工(分配量は大和川6:真光寺4)
おわりに
インタビューを通じて、数多くある山腹水路は様々な苦労の末に造られ、それが現在の糸魚川地域の農業を支えていることを強く感じました。川の遙か上流から険しい山中を通して水を引くことは、今では想像もできないほど困難なことだったと思います。
地域の人々は、このような先人たちの偉業に感謝するとともに、後世に伝えるべく小学校の総合学習の場として活用したり、ライトアップイベントを開催したりしているそうです。このような取り組みを通じて、これからも農業水利施設の役割を語り継いでいってほしいと思います。
地元小学校のふるさと学習(不動川取水口)
地元小学校のふるさと学習(水路内バイガモ見学)