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【五十公野土地改良区】
「五十公野土地改良区」を紹介します
五十公野土地改良区の管内図(この地図は国土地理院発行5万分の1地形図を使用)
五十公野土地改良区の管理区域は、加治川上流の江口、上内竹、丑首、山崎地先周辺のほか、五十公野山周辺の下新保、山王、金谷地先周辺の耕地約480ヘクタールの農業用用排水施設を管理しています。土地改良区の設立は、昭和27年(1952)で、この地域一帯の約550ヘクタールの耕地整理を行うため、設立されました。
五十公野地域の用水の歴史
加治川第1頭首工から用水を取水しています
この地域の用水は、昭和39年(1964)着手した国営加治川沿岸用水改良事業(昭和50年3月完)、昭和45年(1970)から着手した県営加治川沿岸地区(平成9年完了)により用水施設が整備され、現在、安定した用水供給が行われています。
五十公野地区を通過する新発田江用水路
加治川上流の大槻にある加治川第1頭首工から取水し、左岸幹線用水路、佐々木江支線用水路、新発田江支線用水路を流下し、県営新発田江用水、杉原用水、板敷用水路を流れ、地域全体に用水が配水されています。
国営事業により改修された佐々木江支線
加治川から取水していた施設は、このほか、現在の第1頭首工の上流にあった乙見江(大槻頭首工)がありましたが、これら施設や用水路は、昭和41年(1966)7.17下越水害により被害を受け、事業開始されていた国営加治川沿岸用水改良事業と災害復旧事業の共同工事として、新しい統合された加治川第1頭首工と幹線用水路等が昭和45年(1970)までに完成しました。
しかし、この頭首工が完成する前は、この頭首工から1.2km下流の加治川左岸の佐々木川口(佐々木江)、その下流1kmにあった江口の新発田川口(新発田江)と呼ばれた取水口から取水をしていました。
佐々木江は、内竹、荒橋、簑島、猿橋の耕地約870ヘクタールを流下する8.5kmの水路で、その管理、維持・修理を行う組合として、明治26年(1893)に佐々木川普通水利組合として設立され、戦後の土地改良法改正まで存続しました。
改修前の佐々木江用水
新発田江は、旧新発田町、旧五十公野村、内竹、中井、猿橋、荒橋区域の約1,200ヘクタールを流下する9.8kmの水路で、明治26年(1893)設立の新発田川口普通水利組合がその施設の維持を行っていました。昭和29年(1954)、組合は北蒲原郡土地改良区新発田川口事業所に編入され、昭和47年(1972)五十公野土地改良区に編入されました。
五十公野地域で進められている排水改良
排水整備が進められている下新保導水路
近年、地区内は排水不良地が多かったことからその解消に向け、平成元年(1898)から赤沼川排水路の上流となる五十公野幹線排水路を整備しました。
また、現在その上流の排水対策として、湛水防除事業新発田東部地区で洪水時に上流の水を加治川へショートカットする下新保導水路の整備が進められています。
大区画ほ場整備が進められている五十公野地域
五十公野地区の着手前
五十公野地区の着手後
明治末期から大正初期にかけて、周辺の新井田(今の城北町、緑町付近)、板敷周辺で耕地整理が行われ、収量の増や作業手間が軽減されるなど大きな効果を見せました。
その事業効果を見た下新保地区の人々は、耕地整理を望み、大正5年(1916)から大正14年(1925)にかけて、耕地整理組合を設立し、55ヘクタールの耕地整理を実施しました。
現在大区画で進められている五十公野のほ場整備
また、戦後の昭和23年(1948)に金谷地区で5ヘクタールの耕地整理が行われ、さらに地域全体で、ほ場整備が昭和31年(1956)まで行われました。
近年、大型化機械による作業効率の向上、農業従事者の高齢化に伴う担い手不足に対応するため、平成17年(2005)から大区画ほ場整備事業五十公野地区(86ヘクタール)、平成18年(2006)から五十公野2期地区(163ヘクタール)が採択され、大区画のほ場整備を行なっています。