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【米倉土地改良区】

印刷 文字を大きくして印刷 ページ番号:0058274 更新日:2019年3月29日更新

米倉土地改良区は、平成28年2月1日に新発田土地改良区と合併しました

「米倉土地改良区」を紹介します

米倉土地改良区の管内図画像
米倉土地改良区の管内図(この地図は国土地理院発行の5万分の1地形図を使用)

 米倉土地改良区は、昭和37年(1962)、米倉・大槻地域一帯の耕地整理実施のために設立した組織です。
 現在の管理区域は、加治川第1頭首工から下流のの左岸側、大槻集落から米倉集落、最下流の大崎集落周辺の区域約200ヘクタールと平成9年(1997)にその上流に位置する山内集落で県営のほ場整備を実施するために土地改良区に編入した約30ヘクタールの区域を併せた約230ヘクタールの区域となっています。
 なお、米倉土地改良区は新発田土地改良区と平成28年2月1日に新設合併認可を受けました。

国営加治川沿岸用水改良事業に併せた最初のほ場整備の始まり

大槻に造成された加治川第1頭首工画像
大槻に造成された加治川第1頭首工

 現在、米倉地域周辺の耕地には、国営事業の左岸幹線、乙見江支線、新発田江支線用水が流下していますが、それ以前は頭首工より少し上流にあった草堰木工沈床造りの大槻頭首工(乙見江)から用水を取水していました。

 この地域は、乙見江用水の最上流であったことから用水不足で困ることはありませんでしたが、昭和30年代、加治川流域一帯の約7,400ヘクタールの安定した用水供給を目的とした国営事業による新たな幹線用水路3路線が計画されました。
 地域の人々は特定の人だけが大切な耕地を減らされることを恐れ、1区画20アールのほ場整備を参加者全員で土地を少しずつ出し合い実施することとし、スムーズに国営事業を実施することができました。

 当時、この一区画20アールのほ場整備は、周辺ではあまり行われていなかったことから、視察者が絶えないほど訪れる先進的な事業でした。

加治川第1頭首工建設以前にあった大槻(乙見江)頭首工

 大槻(乙見江)頭首工は、現在の加治川第1頭首工の70m上流左岸付近に取水口があり、この300m下流の右岸側には宮古木江、さらに下流左岸側には佐々木江、新発田江など下流にはいくつもの取水口がありました。
 また、この頭首工は古くから用水取入組合で管理され、明治16年(1883)米倉村外28ヶ村乙見江水利土功会から乙見江普通水路組合に継承され、大正15年(1926)に取入堰の改修などが行われ、昭和27年(1952)、北蒲原郡土地改良区に編入されました。

米倉地域を流下する左岸幹線用水路の画像
米倉地域を流下する左岸幹線用水路

 昭和34年(1959)、乙見江土地改良区の設立により、この頭首工や幹線水路の維持管理が継承されました。その後国営事業で頭首工、用水路が整備され、昭和52年(1977)乙見江土地改良区は解散しました。

改修前の佐々木江用水の画像
改修前の佐々木江用水

 国営事業で第1頭首工が完成するまでは、渇水になると下流の人々から「水が無い、田んぼが割れた。何とかしてほしい。」という声が聞こえ、また上流の乙見江から取水していた人々からは「私たちはあまり取っていない。中流からいっぱい取っているのでは・・。」など当時の人々は、「どこからか水が無いか、阿賀野川の水を引いてくるか、それともダムは出来ないか」などいろいろと検討され、現在の農業用水を主体とした内ノ倉ダム建設に至っています。

平成15年度から始まった大区画のほ場の米倉地区、山内地区

 近年、農業機械の大型化や担い手不足に対応するため、平成15年(2003)から大区画ほ場整備米倉地区(207ヘクタール)、山内地区(35ヘクタール)が採択され、現在までに、区画整理は概ね完了し、地区の一部で暗渠排水や湧水処理対策が行われています。

米倉地区の着手前画像
米倉地区の着手前イメージ

米倉地区の着手後画像
米倉地区の着手後イメージ

山内地区の着手前画像
山内地区の着手前イメージ

山内地区の着手後画像
山内地区の着手後イメージ

国営かんがい排水事業「加治川用水地区」が始まりました

米倉地域を流下する乙見江支線の画像
米倉地域を流下する乙見江支線

 現在、加治川第1頭首工や幹線用水路、乙見江支線用水などのこれら施設は40年以上が経過し、老朽化してきたことから、平成24年(2012)に国営かんがい排水事業加治川用水地区が採択され、施設を補修、補強するなど長寿命化対策が進められています。

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