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今回ご紹介するのは、長年長岡市で防災やまちづくりに取り組んでおり、現在は「糸魚川復興まちづくり情報センター」へ出向しスタッフとして活躍されている野村 祐太(のむら ゆうた)さんです。
第19回地域づくり人 野村 祐太さん
長岡市出身の野村さん。大学進学を機に上京しましたが、その後長岡へUターンし、ご自身が代表取締役を務める「株式会社野村防災」を立ち上げました。
―長岡へUターンしようと思った理由は何ですか?
もともと30歳を区切りに長岡へ戻ろうと決めていたからです。長男なので、いずれは地元に戻ろうと思っていました。
しかし、長岡で何をしたいかは正直なところ決まっていませんでした。どんな仕事をしよう?と悩んだのですが、自分の強みは、大学在学時に飲食店のアルバイトで店長代理を務め、そこで培った経営スキルであると気付いたのです。その強みを活かして起業することを決め、「株式会社野村防災」を立ち上げました。防災の会社にした理由は、新潟県中越大震災を始め、全国各地で大きな災害が起こってきたことをたくさん見聞きしていて、防災分野の支援ニーズがあるはずだと見込んでいたためです。
―野村さんは「公益社団法人 中越防災安全推進機構」と連携されているそうですが、どのような経緯でつながりができたのでしょうか?
会社を立ち上げたのは良いものの、仕事がまったくない状態でしたので、長岡市で防災を生業にしている中越防災安全推進機構に飛び込みで営業に行きました。そこで現・地域防災力センター長の諸橋和行さんに出会い、ご挨拶をしたところ、ちょうど機構で新しい事業を始めるところだから一緒に仕事しないか、と声をかけていただきました。そのことをきっかけに、現在も連携が続いています。
―中越防災安全推進機構ではどんな仕事をしていたのですか?
防災教育や、地域に出向いて防災出前講座などを中心に活動していました。対象が児童や親子、地域だと町内会や自主防災会など少し年輩の方が多く、多様な年齢層に対して講座を行ったので、そこに苦労しました。
また、諸橋センター長を通じて、防災関係の団体に「防災関係の会社を新しく立ち上げた若者がいる」と紹介していただきました。この時にできたつながりで今でも仕事などをいただいていたり連携していたりする団体もいて、大きな財産になっています。
―まちづくりの分野に携わるようになったきっかけは何ですか?
2014年に発生した長野県神城断層地震をきっかけに、中越防災安全推進機構の事務所でもある「きおくみらい」にデスクを置いて仕事をするようになりました。最初は地域防災に関わっていたのですが、中越防災安全推進機構の現・統括本部長である稲垣文彦さんから誘われて、人材育成やまちづくりの仕事に取り組みました。まちづくりという分野に携わるのは初めてだったのですが、学生のインターン派遣などを通じて、多くのことを学びました。
―野村さんにとって、一番大きな「学び」は何でしたか?
「『防災力』と『まちづくり』はリンクしている」という気付きです。まちづくりが上手くいっている地域は、人と人とのつながりができていますから、防災力も高いのです。つまり、地域の防災力を高めたいならば、まちづくりの面からアプローチしてみるもの一つの手段です。具体的には地域のイベント内容に「防災」の視点を入れてみる等が挙げられます。地域住民から「地域の防災力を上げたいのだけれども、関心を持つ人が少ない」という悩みが寄せられるのですが、そのような時は「防災」という視点から取り組むのではなく「まちづくり」というテーマで取り組むと、自然と参加者が増え地域の防災力は上がるのだとアドバイスしています。
糸魚川復興まちづくり情報センター
―現在は「糸魚川復興まちづくり情報センター」で働いておられますが、最初に糸魚川と関わったのはいつですか?
糸魚川市駅北大火の復旧支援が最初です。火災が発生した2016年12月22日の翌朝には糸魚川市に到着し、避難所で必要物資の聞き取りなどをしました。また、市社会福祉協議会が運営する「災害ボランティアセンター」の立ち上げから関わり、主に被災者の「思い出の品探し」のボランティアコーディネートをしていました。1ヶ月間現場に滞在しながら支援をし、1月末に長岡へ戻ったのですが、災害ボランティアセンターはまだ運営が続いている状態で、被災者が元の生活に戻れたか見届けられないことが心残りでした。
―その後、どのような経緯で「糸魚川復興まちづくり情報センター」で働くことになったのでしょうか?
災害発生から間もなく、被災地域の復興の方向性を示すために、市が「糸魚川市駅北復興まちづくり計画」を策定しました。「防災とまちづくり」、「災害の記録や伝承」といった難しいテーマも計画の中に盛り込まれました。中越地震からの復興と伝承を担ってきた中越防災安全推進機構に相談が来てそれから僕のところへ声がかかりました。僕としても、災害発生後に一度糸魚川を離れてしまった心残りがあったので、糸魚川に戻ることを決めました。
当時、家族で長岡市に住んでいたのですが、これを機に糸魚川へ転居しました。長岡市から通いで来てしまったら、地域住民にとって僕は「よそ者」のままです。そして僕の経験上、地域住民に「よそ者」と思われたら、まちづくりは絶対にうまくいきません。地域住民と一緒に汗をかいて初めて信頼を得ることができます。まちづくりに取り組む仲間の一人として、「糸魚川復興まちづくり情報センター」で働いています。
―「糸魚川復興まちづくり情報センター」では、どのような取組をしているのでしょうか。
「糸魚川市駅北復興まちづくり計画」の中の「復興」と「にぎわいづくり」の部分に係るマネジメントをしており、被災エリアから一番近い距離にある商店街の仮設店舗で、まちづくりに携わる人材づくり等に取り組んでいます。
具体的には、糸魚川を何とか復興させたい、という想いを抱く仲間を募り、市民団体「まちづくりらぼ(通称:まちらぼ)」を立ち上げました。「まちらぼ」は糸魚川にU・Iターンした20~30代の若者で構成されていて、各自やりたいことや分野は多種多様ですが、全員が助け合い、楽しみながらまちづくりに主体的に関わっています。
イベントの様子
―「まちらぼ」の活動で地域にどのような変化があったのでしょうか?
最初は商店街近くのエリアで様々なイベントを自前で開催していましたが、活動を続けるうちに、市等から、まちづくりのワークショップやキャリア教育の依頼を受けるようになりました。これまでまちづくりのノウハウがある団体が糸魚川におらず、まちづくりに関する催しの実行は市外の団体に依頼していたので、市や地域のお金が外部に流れてしまっていました。しかしその役割を「まちらぼ」が担うことで、市や地域のお金を外に出さず、地域内で循環できるようになったのです。「地域のお金は地域で回す」ことは「持続可能な地域づくり」の基礎です。さらに言えば、糸魚川にある産業ごとに「地域内経済」をもっと考えていきたいです。
―今後の展望を教えてください。
糸魚川市駅北大火は連日ニュースで放送され、対外的に「糸魚川」という地名の認知度は上がりました。一方地域住民の復興への関心は大きな個人差があります。「復興」というテーマで活動しても地域内で関心を持つ人はなかなか現れません。ですが、「まちづくり」というテーマで活動をすれば少なからず関心を持ってもらえます。糸魚川を盛り上げる仲間を増やすために、これまで「まちづくり」を軸に活動してきましたし、今後も続けていきます。
また2020年春頃に、新しく「糸魚川市駅北広場」がオープンする予定です。僕も「糸魚川市駅北広場」のコンセプトづくりに携わらせていただいたのですが、大火の記憶を引き継ぐメモリアル的な機能や、市民の新たな交流の場としてキッチンやDIYスペースを備えた場となっています。
僕が防災の会社を立ち上げてから今まで、最も深く関わった災害が糸魚川市駅北大火であり、地域と密な関わりを築いてきました。その分「最後までこの地域の復興に携わりたい」という想いがあります。2年間この地でまちづくりの機運を作ってきたことが、今後どのように展開するのか見届けたいですね。
ご自身の経験を存分に活かしながら、糸魚川市の復興やまちづくりに奮闘している野村さん。「糸魚川復興まちづくり情報センター」や「まちらぼ」はまちづくりを担う団体として、地域にとって重要な存在となっています。これから糸魚川はどのように発展していくのでしょうか。今後も注目です!