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【長岡】越後長岡百景の「51 慈眼寺(小千谷)」を紹介します

印刷 文字を大きくして印刷 ページ番号:0053373 更新日:2019年3月29日更新

 「越後長岡百景」とは、長岡圏域にある様々な「風景」と、そこに秘められた「人々の想い」を集めたものです。
 その百景のひとつに選ばれた「51 慈眼寺(小千谷)」について紹介します。

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「想い」のタイトル

 長岡藩の運命を決めた場所

公募でよせられた想い・情景(越後長岡百景)

公募でよせられた想い・情景(越後長岡百景)の画像

 1868年5月2日、時の藩主の嘆願書を持った長岡藩家老河井継之助が、戦いを避けるために、小千谷に本陣を構える官軍の軍監、岩村高俊(精一郎)と講和談判を行い、談判決裂となった場所として知られています。また無念やるかたない河井継之助が帰路立ち寄り、長岡藩決戦の意を固めた場所でもあり、長岡の歴史の一つの重要な折り目としても、大変興味を引かれる場所です。
(長岡市在住 60代 男性)
※ 内容は平成16年の応募当時のものです。

百景の想いや場所にまつわる短歌(越後長岡百歌)

 仁王門くぐれば法の慈眼寺の会見の間へと風はいざなふ
 ※ 内容は平成17年の応募当時のものです。

関連情報

慈眼寺の画像

慈眼寺
 慈眼寺は、天武天皇の白鳳年間薩明大徳によって創建されたといわれ、寺域内の船岡観音堂本尊聖観世音菩薩は弘法大師の作と伝えられています。本堂右側の上段の間は、慶応4年(1868年)5月2日、戦いを避けるために藩主の嘆願書を持った長岡藩家老・河井継之助が、小千谷に本陣を構える薩摩と長州を中心とした新政府軍(西軍)の山道軍の軍監、土佐藩士・岩村精一郎と講話談判をおこなった場所です。談判は岩村軍監が嘆願書を無視し、長岡藩に降伏を迫ったため決裂し、北越戊辰戦争の発端となりました。

関係機関リンク先

越後長岡百景位置図

慈眼寺(小千谷)周辺地図(地図内の赤字番号は、百景の番号)の画像
慈眼寺(小千谷)周辺地図(地図内の赤字番号は、百景の番号)

越後長岡百景位置図(全体地図)[PDFファイル/724KB]


大切な思い出の場所、ありますか?-目をつぶれば、心に浮かぶワンシーン「越後長岡百景」

 越後長岡百景は、地域の人々に、その地域の自然や文化、歴史、伝統といったものを題材に、景色・シーンを応募頂き、これにあわせて、「そのシーンに対するタイトルとそこに含まれる想いや情景」、「シーンにまつわる短歌」もお寄せ頂き、それを発信していくことで、地元地域への誇りや愛着心を持って頂くことを目的に、平成15年度から平成17年度に実施した事業です。
 このページ中の「「想い」のタイトル」欄、「公募でよせられた想い・情景(越後長岡百景)」欄、「百景の想いや場所にまつわる短歌(越後長岡百歌)」欄は、応募下さった方の「この景色・シーンに込められた想い」を、応募頂いた当時の内容そのままでご紹介しています。
 少しずつ変わっていくふるさとのまちなみ。時の流れとともに、見ることのできなくなる百景のシーンもあるかもしれませんが、この場所やこのワンシーンに込められた人々の想いに、心を寄せてみてください。

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