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【長岡】越後長岡百景の「98 大河津分水」を紹介します

印刷 文字を大きくして印刷 ページ番号:0053534 更新日:2019年3月29日更新

 「越後長岡百景」とは、長岡圏域にある様々な「風景」と、そこに秘められた「人々の想い」を集めたものです。
 その百景のひとつに選ばれた「98 大河津分水」について紹介します。

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「想い」のタイトル

 日本一の穀倉地帯 蒲原平野を守る大河津分水

公募でよせられた想い・情景(越後長岡百景)

公募でよせられた想い・情景(越後長岡百景)の画像

 20年ほど前、大河津分水の工事見学に行きました。大河津分水は、蒲原平野を信濃川の洪水から守るために江戸時代中期に造られた人工の河川です。建設機械の存在しない時代に実に壮大な構想です。通水から5年後、洪水によって分水路の機能を失いますが2年半で復旧目前にこぎつけます。しかし、集中豪雨で信濃川の水位が上昇し、責任者である宮本武之輔は下流域に住む人々の暮らしを守るため、独断で完成目前で仮締切りを切ってしまうのです。まさに男のロマン。
(新潟市在住 30代 男性)
※ 内容は平成17年の応募当時のものです。

関連情報

大河津分水
 信濃川は越後平野に大きな恵をもたらす反面、度々大洪水を引き起こし、沿川では幾度となく大きな被害が発生していました。こうしたなか、享保年間に、寺泊の豪商・本間数右衛門らが幕府に分水建設を請願しましたが許可されませんでした。その後、様々な人の尽力により、ようやく天保13年(1842年)に測量が開始、明治に入り待望の工事が始まりましたが、数年で中断されてしまいます。そこに、明治29年(1896年)の「横田切れ」と呼ばれる大洪水が発生、この洪水を契機に分水建設の声は高まり、ついに政府は明治42年に工事を再開します。工事中断や地すべりなど、多くの困難を克服し、大正11年(1922年)に通水されました。
 この分水路の完成で下流の洪水が激減し、越後平野発展の基礎となりました。

関係機関リンク先

信濃川大河津資料館<外部リンク>

越後長岡百景位置図

大河津分水路(寺泊)周辺地図の画像
大河津分水路(寺泊)周辺地図

越後長岡百景位置図(全体地図)[PDFファイル/724KB]


大切な思い出の場所、ありますか?-目をつぶれば、心に浮かぶワンシーン「越後長岡百景」

 越後長岡百景は、地域の人々に、その地域の自然や文化、歴史、伝統といったものを題材に、景色・シーンを応募頂き、これにあわせて、「そのシーンに対するタイトルとそこに含まれる想いや情景」、「シーンにまつわる短歌」もお寄せ頂き、それを発信していくことで、地元地域への誇りや愛着心を持って頂くことを目的に、平成15年度から平成17年度に実施した事業です。
 このページ中の「「想い」のタイトル」欄、「公募でよせられた想い・情景(越後長岡百景)」欄、「百景の想いや場所にまつわる短歌(越後長岡百歌)」欄は、応募下さった方の「この景色・シーンに込められた想い」を、応募頂いた当時の内容そのままでご紹介しています。
 少しずつ変わっていくふるさとのまちなみ。時の流れとともに、見ることのできなくなる百景のシーンもあるかもしれませんが、この場所やこのワンシーンに込められた人々の想いに、心を寄せてみてください。

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