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38 五合庵
概要・良寛とのゆかり
詩的風景が拡がる山中に静寂に包まれ佇む庵。国上寺住職の隠居所。国上寺中興の祖といわれる万元上人が貞享末(1687)ごろ、初代として入山してから、隠居所となった。万元上人は国上寺住職の良長から毎日五合の粗米を供されていたことから、五合庵の名が付けられた。
良寛が住んだのは、寛政9年(1797)ころから、仮住まいの期間も含めて、約20年。文化13年(1816)に乙子神社草庵に移住するまでである。
ここを拠点に多くの文人、墨客と交流し、大輪の花を咲かせたのである。
なお、現在の建物は大正3年(1914)の再建である。県の文化財(史跡)に指定されている。にいがた景勝百選の一。
良寛句碑、歌碑や万元上人の墓などがある。
五合庵の内部に、中林梧竹が書いた「五合庵」の木額がある。(現物はしまわれ、複製が掲げられている。)
逸話 竹の子の話
竹の子が雪隠の中に生え、屋根の伸び先を邪魔されていた。
良寛さんは屋根を焼いて竹の子の通る穴を開けようとして雪隠ごと焼いてしまった。
また、ある年には庵の床下に生えた竹の子を、床板をはがして伸ばしてやり、とうとう屋根も破ってしまったが、気にかけることなく寝起きした。
逸話 泥棒に布団を与える話
五合庵に泥棒が入った。盗む物がなく泥棒は良寛さんの布団を盗もうとした。
良寛さんは寝たふりをし、泥棒が布団を盗みやすいように寝返りを打ってあげた。
盗人に とり残されし 窓の月
と詠んだ歌がある。
全景写真
詩歌碑・像
万元上人墓:享保5年(1720)建立。
墓碑名「久賀躬山五合庵開基 慧海阿闍梨 墓」
万元上人は国上寺中興に尽力した客僧であり、約30年間国上寺に住み、隠居してからは五合庵と呼ばれるようになった庵に住んだ。
小川霞山の墓
小川霞山は岩室の医師で、学問や書画にすぐれた。別名橘茂孝ともいう。号は霞山。良寛を敬慕し乙子神社の境内に聴泉亭を作って住んだ。
良寛顕彰の功績は大きい。明治元年60歳で亡くなる。墓碑銘「霞山先生橘茂孝之墓」。遺言により五合庵の隣に墓が建てられる。
良寛句碑(たくほどは):大正9年(1920)建立。
良寛全集を著した分水町中島の玉木礼吉氏が、全集発刊を記念して建てたものである。
逸話
長岡藩主牧野忠精が良寛を城下に招聘しようとして庵まで行ったが、良寛は無言のままこの句を示したという。
良寛歌碑(あすからは):昭和28年(1953)建立。
弥彦村境江の石工武石嘉輔氏により建てられた。碑文の上部には良寛の似顔絵がある。