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刈谷田川左岸地域を潤す大江用水路を紹介します。
刈谷田川左岸地域を潤す大江用水の歴史
市川太郎兵衛の功績を讃える祠
大江用水路は、刈谷田川左岸側に広がる約430ha(ヘクタール)の水田へ用水を供給しています。この用水は刈谷田川沿いの鴉ヶ島頭首工から取水し、延長約12.7kmの水路を流下して耕地を潤しています。
この水路の開削は、江戸時代から始まりました。慶安2年(1649)、長岡藩主であった牧野忠成は、新田開発を進めていましたが、用水が不足していたことから漆山(現見附市)の平右衛門、福井(長岡市)の利右衛門に命じて、渓流水を集めて和田(見附市明晶寺)・梛野(見附市名木野)の古川池に堤をつくったのが始まりです。
下流部の新田開発が進み、更に用水不足となってきたため、藩は承応元年(1652)、市川太郎兵衛に命じ、その水源を稚児清水川に求めました。工事は見附市明晶町観音坂の岩山を切り開く難工事であったほか、工事に反対する人たちの妨害で夜に工事を行うなど難工事でした。
それでも用水が不足していたことから、水源を更に上流の刈谷田川(長岡市鴉ヶ島)に求め、鴉ヶ島隧道(水路トンネル)、宮の原隧道などの岩盤を切り抜く難工事を行い完成に至りました。
江戸時代中期には、天候不順で不作(天明の飢饉)が続き、刈谷田川の水量も極度に減り、大江用水も枯れ出したことから、一昼夜交代で上組、下組の各々の村が交代で取水するなど番水制度が近年まで続きました。
見附市本明町地内の諏訪神社境内には、大江用水の開削者市川太郎兵衛の功績をたたえ、その一祠を「大江神社」として祭っています。
大江用水路その1
大江用水路その2
なお、鴉ヶ島頭首工は、昭和39年(1964)の豪雨で流出し、昭和41年(1966)に災害復旧工事が行われ現在の頭首工がつくられました。また、用水路は昭和28年(1953)から昭和45年(1970)にかけて現在の水路に改修しましたが、造成後50年が経過してきたことから、福島江土地改良区では、水路の補修・補強を行って維持管理しています。