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たずねてみよう山の下閘門排水機場
2つの川が合わさり、にぎわった新潟湊(にいがたみなと)
正保2(1645)年の越後平野(新潟市立山ノ下中学校「松と砂丘と港」より)
今から約270年ほど前(江戸時代の中頃)まで、阿賀野川は信濃川に合わさって日本海に流れこんでいました。信濃川の河口にある新潟湊(今の新潟西港)には、たくさんの水が流れてくるため水深の深い良い港でした。そのため、全国から多くの船が集まるので港町としてにぎわいました。
享保15(1730)年、新発田藩は紫雲寺潟や福島潟などの水はけをよくして、農作物がとれやすく、人も住みやすくするための新田開発に取り組んでいました。そこで、阿賀野川が大きく曲がる松ヶ崎に、普段よりも水が多く流れる洪水の時だけ、余分な水を日本海へ直接流そうと考え、水路を掘り、堰(せき)を造りました。
阿賀野川の河口となった松ヶ崎
阿賀野川悪水抜き堀割場所絵図享保14(1729)年〔佐藤綾子氏蔵〕(図説新潟市史より)
阿賀野川悪水抜き堀割絵図 享保15(1730)年(図説新潟市史より)
せっかく造った松ヶ崎の堰ですが、次の年(1731年)の春の雪解け水の洪水で壊れてしまい、阿賀野川は今の新潟空港の脇から直接日本海に流れ出るようになりました。その後、新潟湊には阿賀野川の水がほとんど流れなくなったため、阿賀野川からの船が通れなくなったり、湊は浅くなったりして、人々は困ってしまいました。
船を通すために掘られた通船川
安永2(1773)年 通船川開削裏書き証文をもとにした図(図説新潟市史より)
阿賀野川方面と新潟湊に船を行き来できるようにするため、今の新潟市本所から海老ヶ瀬まで運河を掘りました。
しかし、阿賀野川からの入り口がすぐに土砂で埋まってしまうため、この運河は使われなくなってしまいました。 その後、以前の阿賀野川本流の跡を船が通れるように整備したのが、通船川の始まりです。