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農業水利施設の歴史探訪シリーズ vol.3 『馬堀用水路』

印刷 文字を大きくして印刷 ページ番号:0013995 更新日:2019年3月26日更新

施設概要【にいがた農業水利施設百選(整理番号63)】

 新潟県のほぼ中央部に位置する西蒲原地域の農業用水は、一級河川西川と中ノ口川から取水しています。その中で、馬堀用水路(まぼりようすいろ)は西川の馬堀樋管(燕市吉田本町地内)から取水し、旧岩室村を通り西蒲区馬堀周辺のかんがいを担う用水路で、施設そのものは江戸時代初期の寛永年間に造られました。
 現在、馬堀用水路は、受益面積993ha、延長7,400m、関係集落は13集落にも上る大規模な農業用の水路です。307haがほ場整備済みであり、水田等への用水供給はパイプライン化された用水路を通じてかんがいされ、馬堀用水路から離れた田んぼにも水が行きやすくなっています。

一級河川大通川と交差する馬堀用水路のが
一級河川大通川と交差する馬堀用水路

馬堀樋管(馬堀用水の取水口)の画像
馬堀樋管(馬堀用水の取水口)

インタビュー協力

インタビューの様子の画像
インタビューの様子

  • 田辺光榮 (新潟市文化財指定史跡馬堀用水遺跡・長恩院石塔 管理者)
  • 本間 仁 (西蒲原土地改良区 西地区事務所 事務長)

※田辺光榮さんからは、水利組合長時代の経験談や、過去に掲載された新聞記事、発行されている資料などを拝見しながらお話をうかがいました。
また、田辺光榮さんは、馬堀の首塚伝説に登場する小兵衛の測量を手伝った権兵衛の子孫にあたる方とのことです。

馬掘用水路の歴史

 寛永(1600年代)のころ、馬堀村は水不足で凶作が度々起きていたことから、名主小兵衛は西川から水を引くしかないと考え、代官所や長岡藩に何度も用水計画の許可を願い出て許しを得た。
 下調べの役人は「場所が高いから管を敷設しても水は通るまい。中止すべきだ。」と言い、小兵衛と対立した。水が通れば役人の、通らなければ小兵衛の首をはねることで工事が始まった。
 完工が近づき水が通る見通しがついたため、役人は大工に命じて板のせきをはめさせ水が流れないようにした。このため流水の日、一滴の水も流れず小兵衛の首は切り落とされた。胴から離れた生首は水の中に飛び込んだかと思うと、しばらくして板をくわえて目をかっと見開き、天高く上がっていった。水は滝のようにごう音をたて村まで流れていった。ときに小兵衛三十歳だった。
 こうして長く水不足で苦しめられた馬堀と近隣の村々は、小兵衛の命と引き換えに豊かな秋の実りが続いている。

長恩院に設置されている看板の画像
長恩院に設置されている看板

地域の歴史を後世へ引き継ぐ

 小兵衛の没後107年目の1752年、馬堀村の村人はその功績を讃え、三根山領主の許しを得て「首塚」と異名される「長恩院石塔」を建立しました。
 現在でも毎年、小兵衛の命日である8月25日には長恩院近隣の久福寺にて首塚祭りが行われ、近隣の集落の人々、農業関係者や水利事業に携わる人たちが訪れ、小兵衛の偉業を讃えています。
 西蒲原地域に多大なる恩恵をもたらしてきた馬堀用水路ですが、幾度も改修が行われており、残念ながら現在では、建設当時のものが残っている箇所はありません。
 現在は、経年による老朽化が目立つところも出てきており、管理者である西蒲原土地改良区としては、地域の宝である用水路を守って行くためにストックマネジメント事業等を活用しながら、今後も重要な幹線水路として適切に維持管理していきたいとのことでした。

地域の歴史を後世へ引き継ぐの画像

長恩院 長恩院石塔 現在の馬掘水路

最後に

 現在、馬堀用水と長恩院石塔は新潟市指定文化財史跡「馬堀用水遺跡」に指定されています。これは、先人が命がけで掘った馬堀用水路を西蒲原地域の大切な宝であることを忘れないためにと、今回お話をうかがった田辺さんが発案されたそうです。
 地元に愛される農業水利施設だからこそ、綿々と繋がっていることをあらためて強く感じました。
 我々も農業農村の振興に携わるものとして、この馬堀用水路が今後何世代にも引き継がれていけるように支援していきたいと思います。

馬堀用水遺跡看板(新潟市教育委員会)の画像
馬堀用水遺跡看板(新潟市教育委員会)

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