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農業水利施設の歴史探訪シリーズ vol.4 『桔梗原頭首工、桔梗原隧道、桔梗原用水、清津川揚水機場』
施設概要【にいがた農業水利施設百選(整理番号17,68)】
地域の概要
新潟県十日町市の南側、信濃川の右岸に位置し、信濃川支川の釜川付近において津南町と接しています。
施設の取水源である清津川は、上信越高原国立公園内の苗場山等を源とし、十日町市田沢地内において信濃川と合流します。上流域の「清津峡」は日本三大渓谷のひとつに数えられる景勝地であり多くの観光客が訪れます。
桔梗原頭首工、桔梗原隧道、桔梗原用水、清津川揚水機場の概要
施設の受益地は2段の段丘※1からなり、段丘の低位部は標高約230mの桔梗原、高位部はそこから一段上がった標高300~500mの波状台地です。
清津川の水を桔梗原頭首工(標高約300m)から取り入れ、段丘沿いの断崖を縫うように開削された桔梗原用水(延長9km、うち隧道[トンネル]3km)により、低位部の約190haの農地を潤しています。
一方、桔梗原用水の一部を十日町市程島地内の清津川揚水機場から、高低差約170mの高台へ1.2立法メートル/sの用水をポンプアップして、高位部の約260haを潤しています。
※1 段丘とは
表面が平坦で、周囲が急斜面や崖で囲まれた段状の地形。
施設位置図
桔梗原用水路
桔梗原頭首工と桔梗原隧道
インタビュー協力
吉楽さん(中里土地改良区 事務長)
施設の歴史
施設建設の歴史は江戸時代に遡ります。1700年代前半、桔梗原は僅かな畑と田畑の肥料や牛馬の飼料用草刈場、薪炭・材木採取場となっている原野だったといいます。河岸段丘である当時の耕地は、地形の特性上、用水を雨水や僅かな沢水、湧水に頼る他なく、頻繁に水不足に悩まされ、新田開発も困難な状況にありました。
1700年代後半になると、水不足解消のため、清津川から取水して用水路により導水し、さらには桔梗原の新田開発も試みようという計画が度々持ち上がりました。そのため、幕府の力による御入用普請※2(用水路延長6500m)や、自普請※3のための許可(用水路延長2900m)など、代官所への願い出が何度もなされました。
1785年(天明5年)、幕府の普請奉行が桔梗原に着目し、在郷の庄屋「五郎兵衛」他3名が開発引受人(出資者)となることで、ついに東田尻を取水地点とする清津川からの取水計画が実現し、用水路工事及び開田工事に着手しました。
水路の総延長は2900間(約5300m)で、このうち繰り穴(トンネル)が1100間(約2000m)、その他も急斜面の断崖などを掘り通すもので、具体的な記録はありませんが、大変な難工事だったことが想定されます。
着手の翌年の1786年(天明6年)3月に水路は完成しましたが、用水路や田の漏水がひどかったため水がいき渡らず、田40haの整備を終えたものの、まともに耕作できたのは4ha程度でした。加えて、桔梗原170haの開田計画がありましたが、到底着手できない状態だったといいます。地元農家は、用水路の漏水解消と通水量増加のために、幕府に御入用普請を再三願い出ましたが聞き入れられず、この桔梗原170haの開田計画の実現は、大正時代に入るまで実現しませんでした。
※2 御入用普請とは
幕府側が費用負担して、水路の建設・修理、橋梁の掛替などの工事を行うこと。
※3 自普請とは
農民が自身で費用負担して工事を行うこと。
古絵図 用水路大破御入用御普請願上奉候(天保三辰年十一月)
用水路の維持管理
こうして整備された用水路は、1815年(文政11年)に地元の農家が引受人から譲り受け、毎年春秋の定期的な江浚や補修等の維持管理がなされてきました。受益農地にとって生命線である用水路ですが、隧道や断崖部を多く含むため、落盤や山崩れが頻発し、その復旧に多数の死者やけが人が発生したといいます。
明治になると1903年(明治36年)に「田沢普通水利組合」が設立され、1931年(昭和6年)には「桔梗原耕地整理組合」へ管理を移管し、その後「桔梗原土地改良区」、「中里村土地改良区」そして現在の「中里土地改良区」へと引き継がれています。
桔梗原の耕地整備
清津川からの取水量の増量と桔梗原の残りの未開地を開田する計画は、1922年(大正11年)に設立した「田沢村耕地整理組合」により実現されました。工事の内容は、総面積175.5haの耕地整備と取水地点の上流部への変更、堰堤・隧道の新設、既設水路の改修などで、1939年(昭和14年)まで行われました。これにより、田は5~7a区画に整備されました。
その後、平成2年から平成12年には県営ほ整備事業によって再整備され、大型農業機械の営農が可能な30a区画の田に整備され、現在の地域農業を支えています。
桔梗原頭首工の工事状況(昭和10年代)
清津川右岸段丘地の開発
清津川揚水機場から揚水し灌漑している段丘の高位部260haは、昭和41年~昭和48年の「県営清津川右岸段丘総合パイロット事業」により整備されました。
揚水機場の施設規模「揚程(約170m)、揚水量(1.2立法メートル/s)」は建設当時日本一であり、事業構想の壮大さがうかがわれます。当地の整備は、桔梗原の耕地整備に続く地元住民の夢でありました。田畑や山林原野が混在し農道も未整備であった土地が、20a区画の田とコンクリート水路を備えた一大団地に生まれ変わりました。
清津川揚水機場(昭和49年竣工時)
清津川揚水機場の送水管
清津川右岸段丘の開発前後の状況
現在の状況
先人達の念願であった清津川からの取水計画が実現し、約230年が経過しました。取水から末端まで約9kmの延長を有する施設は、頻繁に改修や補修を繰り返しました。しかし、地元農家の熱意と補助事業を活用した大規模な改修等により、現在まで維持管理されてきました。その結果、当施設は地域の農業を支える動脈として、現在も機能しています。
また、当地は県内有数の豪雪地帯であり、冬期間は除雪した雪を流雪溝に流して処理します。この流雪溝の用水の一部は、桔梗原頭首工から取水し桔梗原用水路を経由しており、冬期間にも地域の生活を支える役割もしています。
桔梗原用水の受益地の航空写真(平成12年桔梗原地区)
取材後記
現在は、用水施設等が整備されて安定した地域農業が営まれていますが、その根幹には、新田計画や用水開発などを実現するために、先人達の努力や強い思いの積み重ねがありました。また、農業における‘用水の重要性’についても、取材を通して改めて認識しました。
農業の発展は地域集落の形成と密接に関わっているため、本記事により、農業水利施設と併せて地域農業の歴史を多くの方に知ってもらえればと思います。