本文
農業水利施設の歴史探訪シリーズ vol.8 『大瀁(おおぶけ)用水路と大池・小池~大瀁郷に新田拓いた用水施設~』
施設概要【にいがた農業水利施設百選(整理番号50)】
高田平野(上越市)の三大用水と呼ばれる上江用水(寛永元年1661年)、中江用水(延宝6年1678年)、大瀁用水(正保元年1644年)は、いずれも高田藩の殖産興業の一環として、開発されました。
ここで紹介する大瀁用水は、一級河川保倉川(浦川原区顕聖寺)から取水し、高田平野の北東部(上越市頸城区)約1,600haを潤しています。
用水源である保倉川は、豊富な雪解水がある一方、山が浅く、夏場は甚だしく渇水するため、本地域では、豊水期に用水を大池・小池へポンプアップして貯水し、渇水期に、補給用水として利用しています。
大池・小池(上空から撮影)
大池・小池は、貯水量約300万t(大池約200万t、小池約100万t)を誇る地域の大切な水瓶であるとともに、風光明媚な景勝地としても有名です。「直峰・松之山大池県立自然公園」に属し、周辺に遊歩道やキャンプ場、自然学習施設などが整備され、県内外から多くの方が訪れます。
インタビュー協力
頸城土地改良区職員の皆さん
「大瀁(おおぶけ)」の「瀁」は、辞書によれば、「水が際限なく広いさま」、「水があふれ漂うさま」という意味とあり、江戸時代の開発前、大瀁郷には大きな潟が点在し、アシやカヤが繁茂した沼沢が付近一帯に広がっていたものと思われます。
頸城土地改良区の職員の皆さんへのインタビューでは、大瀁用水と大池・小池を中心に350余年の大瀁郷の開発の歴史をお聞きしました。
施設の歴史
新田開発~江戸時代~
大瀁郷の新田開発は、徳川家康が江戸幕府を樹立してから34年後(1637年)、松平光長が越後高田藩城主の時代から、3期延べ40年に渡り行われました。
第1期 大瀁新田開発と大瀁用水開削 寛永15年(1638年)から6年間
第2期 中谷内新田開発と潟川排水路の開削 正保3年(1648年)から9年間
第3期 大潟新田開発 寛文元年(1661年)から17年間
山裾を流れる大瀁用水(上越市浦川原区内)
一連の新田開発では、大瀁用水の開削、大潟の悪水干拓に成功し、100ヶ村の新田、合計16,455石が開発されましたが、耕地面積について詳細な資料がなく、1,650ha程と想定されています。
大瀁用水は、第1期開発において、横川村(現浦川原区横川)を流れる一級河川保倉川から福島村(現頸城区西福島)までの全長20kmが開削され、正保元年(1644年)に完成し、7,575石が開発されました。
新田開発の手法には、幕府天領の代官や藩による官営新田、村や町人による民営新田がありますが、大瀁郷の開発は、資金力のある大都市などの商人が開発し、小作農を雇って耕作させる町人請負で実施されました。
水田地帯を流れる大瀁用水(上越市頸城区内)
寛永14年(1637年)、甲州流の優れた土木技術を有する神戸三郎左衛門、茂田七右衛門、高田藩御用商人の宮嶋作右衛門らは、大瀁郷の新田開発に関する方法七ヶ条を書き上げ、高田藩主に願い出て、これが許可されました。
方法七ヶ条には、「新田開発が成功したら、何程でも、開発高の十分一を褒美としてください」と謳われる一方、「用水開削の費用は如何程かかっても拙者どもが負担いたします」「万一新田開発が成就しなかった場合には、普請所の潰地年貢は何か年でも御下知次第拙者共はきっと上納します」等の条文があり、神戸らには、財力と技術的知識に充分な自信があったものと推察されます。
正保2年(1645年)、高田藩は、新田開発成功の褒美として、神戸らに、約束どおり7,575石の1割を与えており、「分一米」と呼ばれています。また、「大瀁新田」は、開発功労者・神戸三郎左衛門が自ら命名したとされおり、「大瀁用水」「大瀁小学校」にその名が残っています。
横川堰から顕聖寺堰へ~江戸時代~
江戸時代の顕聖寺堰の絵図
開発時の大瀁用水は、現在の堰よりも下流の横川村から取水していましたが、造成から約80年の間に、記録に残るだけで洪水による堰の流出や大破は6回にも及んでいました。横川堰は地盤が弱く、河川が急流で蛇行する地点であったため、何回も押し流され、農民は、その都度、堰を作り直す必要がありました。
このため、大瀁用水42ヶ村の者は決意し、顕聖寺村(けんしょうじ村)と交渉を重ね、享保8年(1723年)上流の顕聖寺村に本格的な用水堰を築き、ここから380m用水路を堀割って、横川へつなぎ、これ以来、顕聖寺堰と呼ばれるようになりました。
顕聖寺堰の改修~大正~
現在の顕聖寺堰(上越市浦川原区)
顕聖寺へ移動してからも、堰は、聖枠据付、石、土、粗朶積み、莚ばりの草堰のため、大水のたびに破損、流出し、また、長大な大瀁用水路も、浦川原村の山麓を縫うため土砂崩れ等で、維持管理に苦しんでいました。
堰を顕聖寺に移動してから193年後の大正5年(1916年)、大瀁用水区域800haの各大字の農民代表が村長に水利改善の一大運動を起こし、関係者の陳情がなされた結果、県よりコンクリート造石張用水堰新築が認可されました。
当時の大瀁用水組合の年間予算3,699円に対し、堰の工事費は30,769円となりました。銀行からの資金借り入れによる大事業となりましたが、完成により顕聖寺堰は流出することはなく、安定した用水の取水に大いに貢献しました。
大瀁用水路と大池・小池の連結~昭和~
現在の大池揚水機場(上越市頸城区)
第2次世界大戦末の昭和19年(1944年)より、大瀁村、明治村の農業水利の改良を求める気運が高まり、昭和22年(1947年)には、大瀁用水組合と大池溜用水組合、大瀁・明治両村長により国へ請願された大瀁村外二ヶ村地区用排水改良事業が許可され、県営事業として工事に着手しました。
本事業は、大瀁村・明治村・下保倉村・八千浦村(現上越市)の約1,650haの用水供給と、一部低平地の排水改良を行うもので、用水は、次の改修が行われました。
- 保倉川からの安定取水を図るため、顕聖寺堰を改修
- 通水能力の強化と漏水防止のため、大瀁用水路約10kmの護岸を改修
- 貯水量を26倍の307万tとするため、大池・小池溜の堤体を築堤
- 大瀁用水に口径60cm、125kwのポンプを設置し、大池・小池溜を連結。
本事業は、昭和41年(1966年)の完了まで19年間の年月と、高度経済成長期のインフレで1,320万円の事業費が4億8千万円と大増額となりましたが、保倉川と大池・小池溜の水利権の共同利用という計画は、画期的かつ効果絶大なものでした。これを機に、大瀁用水普通水利組合と大池溜用水普通水利組合の合併、更に頸城土地改良区の新設(昭和27年1952年)へと進展し、現在の水管理の体制が形成されました。
全村ほ場整備と第2期用水改良~昭和-平成~
現在の大瀁用水の分水施設(上越市頸城区)
頸城土地改良区設立以来、用水施設の整備と合わせ、10a区画のほ場整備が続けられてきましたが、昭和50年代になり、効率的な大規模経営の実現と低コストで良質な米作りに向けて、再度大区画の基盤整備の必要性が叫ばれるようになりました。そこで、昭和53年(1978年)の県営ほ場整備事業大潟1期地区を皮切りに、頸城村全域を対象に30aから1haを標準区画としたほ場整備が始まりました。用水施設についても、全村ほ場整備事業の前提となる用水手当として、昭和57年(1982年)、県営かんがい排水事業頸城地区に着手し、次の工事を実施しました。
- 大瀁用水を鉄筋コンクリート三面張化により、通水能力を強化
- 各支線用水路の鉄筋コンクリート三面張化
- 大池揚水機場の新築、能力30%アップ
- 顕聖寺堰、各分水堰、余水吐、遠方監視・操作システム導入
本事業は、平成4年まで13ヵ年、工事費30億4千万円を要しました。ほ場整備事業と一体的に実施したことで、農業経営の効率化や生産コストの低減、安定した用水確保などが早期に図られ、現在まで大瀁郷地域の農業の発展に寄与しています。
最後に~施設の管理~
農業の歴史は、水との闘いであると言われるように、350余年、何代にも渡る先人たちの英知とたゆまぬ努力の結果、現在、大瀁郷は用排水路が整備された美田となっています。
しかし、元々、大池・小池の集水面積が少なく、保倉川の流量は安定しないために、用水の確保、公平な水配分には、細心の注意が払われています。
大瀁用水の基幹施設は頸城土地改良区が直轄管理し、支線用水路は7つの維持管理協議会によって管理されています。水管理については、維持管理委員会が組織され、全域の水配分を取り決めているほか、用水時期には、土地改良区職員が交代で事務所に泊まり込み、流量監視やゲート操作等によって用水の需給量を調整し、管内全域の公平な水配分に努めています。
今回のインタビューを通して、大瀁郷の美田は、先人たちの英知や努力を礎に、現在の管理者の方々の尽力によって支えられていることを改めて感じました。
参考文献:越後頸城郡大瀁郷新田開発史(昭和50年発行)
PDF形式のファイルをご覧いただく場合には、Adobe社が提供するAdobe Readerが必要です。
Adobe Readerをお持ちでない方は、バナーのリンク先からダウンロードしてください。(無料)