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農業水利施設の歴史探訪シリーズ vol.9 『多様な機能で地域を支える内の倉ダム』
施設概要 【にいがた農業水利施設百選(整理番号40)】
内の倉ダムと内の倉川
内の倉ダムは、新潟県北東部の新発田市を流れる二級河川加治川の支流である内の倉川に、国営加治川農業水利事業(事業工期:昭和39~49年)により築造(昭和48年竣工)された多目的ダムで、新潟県が維持管理を行っています。
構造は、堤高82.5m、堤頂166.0m、総貯水量は2,480万立法メートルあり、目的別の貯水量は、かんがい用水(農業用水)1,690万立法メートル、洪水調整420万立法メートル、上水道110万立法メートル、ほか堆砂容量260万立法メートルとなっています。
ダムの型式は、中空重力式コンクリートダムです。中空重力式ダムは、内部が広い空洞となっているのが特徴で、コンクリート使用量が通常の重力式ダムに比べて非常に少なくなりますが、型枠が非常に複雑になるため、その型枠を作る作業員は大変苦労しました。そのため、日本国内に約3,000あるダムのうち、中空重力式ダムは、13箇所しかなく、その中で内の倉ダムは日本で最後に建設された中空重力式ダムとなります。
ダム内の空洞では、毎年コンサートが行われている他、平成25年度に結婚式、平成28年度には映画の撮影などにも利用されています。また、ダム湖周辺には、ダム湖を囲む全舗装の周回道路一周約8km、ロッククライミング場、湖畔公園等が整備されるなど、訪れる人に親しまれる施設となっています。
インタビュー協力
インタビューの様子
加治川沿岸土地改良区連合
加治川沿岸土地改良区連合は国営加治川農業水利事業および県営かんがい排水事業により造成されたた施設(内の倉ダム、内の倉発電所等)を一元的に管理し、安定・合理的な用水管理を行うことを目的に昭和62年に関係する10の土地改良区が連合を組織し、設立されました。
インタビュー者 長野事務局長・花野主任
ダムの建設に至る歴史・背景
(1)加治川の歴史
ア.洪水と渇水
加治川は豊渇の差が著しく、周辺の村々は昔から洪水や渇水の被害を受けてきた歴史があります。
加治川関連の記録史によりますと、当時の関係土地改良区理事長さんから、
- 末端水利地区では「降れば洪水晴れれば干ばつ」という悲哀を過去何百年、先祖代々、親から子へ受け継がされていた。
- 下流域の住民から、加治川に水がなくなり田が割れてくると、上流側の役場に酒や西瓜を持ってお願いに来た。
などの記述があり、長年に渡り洪水と渇水に悩まされてきたことがうかがえます。
イ.洪水対策の実施と課題
加治川の流末が日本海ではなく阿賀野川へ合流していたことから、洪水対策や乾田化対策として、加治川を直接日本海へ放流するための加治川分水路工事が明治41年に着手されました。
大規模な工事のため、7年の歳月と20万人の労力を費やし、大正3年に完成しました。この時、記念樹として、堤防の裏法肩に桜苗6,000本が植えられ、後述する羽越水害前までは「長堤十里、日本一の加治川桜」として賑わっていました。
ところが、加治川分水路の完成以降も分水路の上流の本川・支川(姫田川、坂井川)各所で河積狭小を原因とする堤防の決壊による被害が発生していたため、その対策として河積拡大や築堤など河川改修が進められました。しかし、昭和25年ころの加治川には、大小13余りの取水施設があり、河川改修時にはこれらの取水施設も併せて改修しなければならないため時間と費用を要することなり、河川改修が進まない状況にありました。
一方、加治川は流量が不安定なうえ、年々河床低下や流心の変動があり、また取水施設が老朽化してきていたことから、十分な取水ができず干ばつの被害を被っていました。
加治川分水路位置図
(2)国への陳情と内の倉ダムの事業化
着手間もないダム下流側
用水不足が一層深刻化したことなどから昭和25年に、北蒲原の各市町村長が結束して、近代的機械化農業へ進むための農地の基盤整備には「農業用水の安定確保」が先決として、当時の県知事を会長に阿賀野川右岸大規模用水期成同盟会を結成しました。
この期成同盟会が、農林水産省に、阿賀野川地区約10,000haと加治川地域の8,500haをかんがいする大規模用水事業を国営で取り組むように陳情し、昭和26年から現在の北陸農政局が調査に着手しました。その後、水系秩序を守る意見があり、加治川地域は国営加治川農業水利事業(受益面積8,588ha)として昭和39年12月に事業計画が確定されました。
大小13余りの取水施設を2箇所に統合(加治川第1頭首工、第2頭首工)し、用水の貯留を行うため加治川の支流の内の倉川にダム建設(内の倉ダム)が事業化されました。
(3)農業用ダムから多目的ダムへ
ダムの事業計画は、加治川沿いに広がる穀倉地帯の「農業用水の安定確保」と新発田市の「上水道用水の補給」を目的として決定されました。
ところが、昭和41年7月17日の集中豪雨で加治川は破堤、溢水し沿岸に多大な被害を与えました。この大災害を契機に昭和42年2月、ダムに洪水調節機能を追加する検討が始まりましたが、その矢先、昭和42年8月28日再度集中豪雨(※羽越水害)に見舞われ、前年をはるかに上まわる被害を受けました。このため、昭和43年8月に洪水調節機能(420万立法メートル)を加え、「農業用水・上水道用水・洪水調整」の機能を持つ多目的ダムとして建設されることが改めて決まりました。
ダム工事は、昭和41年8月から工事用道路など仮設工事に着手し、昭和43年5月に仮排水トンネル(L=219m)が貫通し、本格的なダムサイト掘削が開始されました。昭和44年10月から昼夜兼行でダム本体コンクリートの打設(日打設量平均400立法メートル)が始まり、昭和47年9月に全コンクリートの打設が完了し、同年12月から湛水が開始されました。このようにして、昭和48年11月に240万時間余にわたる本体工事が死亡事故ゼロで竣工しました。
※羽越水害 昭和42年8月26日頃から北と南の高気圧の間に停滞していた前線が活発となり、この前線上に発生した低気圧が26~29日にかけて2つ通り、総雨量が700mmを超す豪雨となりました。平野部では加治川での破堤等による浸水が家屋等を襲い山間部では豪雨が山肌を削り取り、土石流となって人々を襲いました。
羽越水害被災図
3 内の倉ダムの管理
内の倉発電所(手前)と内の倉ダム(奥)
現在、内の倉ダムの管理は、新発田地域振興局地域整備部がおこなっています。加治川沿岸土地改良区連合は、ダムの農業用水を使用する立場として、ダム管理者と連携をよく図ることが重要だとおっしゃっていました。
加治川沿岸土地改良区連合は、毎日の農業用水の需要予測、加治川の流量、天気予報などをもとに、ダムの放流量を決め、それをダム管理者に伝えて農業用水をダムから放流してもらい、水を利用しているそうです。しかし、想定外の雨が降り加治川の流量が増えた場合には、ダムからの放流量を絞る必要があるため、ダム管理者との調整が重要となるそうです。
また、新発田地域振興局農業振興部やJA等の営農部門との連携も重要だそうです。台風にともなうフェーン現象で気温が急激に上昇する場合には、稲を高温から守るため田んぼに水をかけることから農業用水が必要となります。このため、営農部門から稲の栽培情報を入手し、高温対策として農業用水の供給量を増やす場合には、関係の土地改良区や営農部門にも連絡して、農家へ速やかに情報が伝わるようにしているそうです。
最後に
現在、内の倉ダムは加治川流域の農業用水と上水道水の貯留機能、豪雨災害から地域を守る防災機能などを併せ持つ多目的ダムとして、地域にとって必要不可欠で重要な役割を果たしています。
ここに至るまでには、「地域農業の発展を目指す農家や関係者」「災害から地域を守ろうとする地域住民」等の強い思いにより、多数の関係者との協議・調整を重ねて完成にこぎ着けることができたダムです。先人の思いと建設における苦労に感謝と敬意を表し、この偉業を後世に伝えていく必要があると感じました。
また、ダムが有効に活用されているのは、加治川沿岸土地改良区連合がダム管理者及び関係機関とよく連携を図っているおかげだと気づくことができました。
※ 出典・引用:「加治川(昭和50年3月)」北陸農政局加治川農業水利事業所
「内の倉ダムパンフレット」新潟県新発田地域振興局地域整備部
「内の倉発電所」新潟県新発田地域振興局農村整備部
「新発田地域における新田開発のあゆみ用水編」新潟県新発田地域