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【新発田】農業水利施設百選: 塩津潟(紫雲寺潟)を美田に変えた排水路
落堀川周辺の地図イメージ(この地図は国土地理院発行の5万分の1地形図を使用)
落堀川の歴史
今の落堀川の様子1
17世紀の江戸時代、現在の新発田市紫雲寺地域、胎内市塩津地域には、約2,000ヘクタールにも及ぶ広大な沼地が広がっていました。これが、塩津潟(紫雲寺潟)です。
この沼地は、日本海の砂丘地により排水ができなく、加治川から阿賀野川へ流入し、信濃川、新潟町へと流れていました。また、北側には胎内川が流れ、荒川の河口へと通じていました。
塩津潟は、当時幕府領で、村上藩・新発田藩が管理をしていました。村上藩は、この周辺でたびたび洪水に遭っていたので、新発田藩に長者堀の開削をお願いしました。しかし、周辺の水位が低下し、新潟港の舟運に影響が出るのを恐れ、許可をしませんでした。
やむなく、村上藩は塩津潟と胎内川をむすぶ開削(高畑開削)を元禄11年(1698)に行いましたが、排水対策の効果はありませんでした。
県今の落堀川の様子
その約20年後の享保6年(1721年)に、ようやく許可され、長者堀の開削(延長約3km、巾約20m、高さ約2m)が行われましたが、翌年にはすぐに土砂で埋まってしまいました。
江戸で商売をしていた竹前小八郎は、その話を聞き、兄:権兵衛(長野県須坂出身で、山で硫黄を掘っていました。)と長者堀の再掘削と潟への流入の締め切りなどを行い、約250ヘクタールの新田開発を願い出ました。
開削には、莫大な資金が必要であったことから、竹前兄弟は全財産を投資し、柏崎の宮川四郎兵衛などの出資協力を受け、享保13年(1728年)、3万人を動員し、1ヶ月で約2.6km、巾36m、高さ4mを開削しました。
その2~3年後に大きな洪水があり、長者堀の河床が大きく下がり、塩津潟(紫雲寺潟)の2,000ヘクタールが干上がり、竹前兄弟は約500ヘクタールの耕地をもらいました。これにより、広大な耕地が生まれ、周辺には約42の集落が誕生しました。
干拓後、潟周辺の耕地整理は少しずつ進んでいきましたが、落堀川に注ぐ水は、時には氾濫して護岸が決壊し、付近の水田に浸水し稲作に被害を与えることがしばしばありました。
このような状態を改善するため、関係市町村は、昭和の初期から落堀川や支川の改修要望を県に行い、昭和9年(1934)から昭和12年(1937)まで、県が測量を実施しました。
しかし、戦時中でもあり、事業実施には至りませんでした。
戦後の動き
当時の落堀川の様子
戦後、食料増産の気運が高まり始め、この地域の排水不良地を解消するため、県営落堀川沿岸農業水利改良事業(S21~S32)が開始されました。
工事の内容は、落堀川3.2km、十文字川4.2km、舟戸川4.7km、見透川6km、大井川2.1km、小堀川2.6km、柴橋川3.3km、底樋川0.6km、河根川0.8km、堀川1.7kmの合計29.3kmの大小排水路の改修で、周辺の耕地約3,900ヘクタールの排水改良を実施しました。
この排水改良に併せ、周辺区域全体で10アールの耕地整理や暗渠排水工事が進められました。
それらの排水路は、その後河川指定を受け、現在、河川改修や湛水防除事業落堀川地区で改修を進めています。