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【阿賀野川土地改良区】
「阿賀野川土地改良区」を紹介します
阿賀野川土地改良区の管内図(この地図は国土地理院発行の5万分の1地形図を使用)
阿賀野川土地改良区は、笹岡土地改良区が管理する大室、羽黒、須走、勝屋、笹岡周辺を除く阿賀野市全体と隣接する新潟市北区・江南区の一部、新発田市の一部を区域とする約5,700ヘクタールの耕地の農業用施設を管理しています。
土地改良区は、「新江土地改良区」と「北蒲原郡南部土地改良区」との新設合併で平成15年2月に設立しました。
県内最大級の用水を取水する阿賀野川頭首工
「新江土地改良区」の歴史については、享保19年(1734)に新発田藩の治水墾田で竣功した新江用水の管理者である新江水利組合(後に新江用水普通水利組合)が昭和24年(1949)の土地改良法の制定に伴い、組織変更して北蒲原郡新江土地改良区となり、昭和45年(1970)に岡方土地改良区、翌年に安田土地改良区を吸収合併して、昭和54年(1979)に京ヶ瀬土地改良区と新設合併し組織されました。
阿賀野川から取水する旧南耕用水取入口
また、「北蒲原郡南部土地改良区」は、大正12年(1923)に設立された北蒲原郡南部耕地整理組合を前身として、昭和27年(1952)に北蒲原郡南部土地改良区となり、平成10年(1998)に賀慶土地改良区を吸収合併したものです。
この地域のかんがい用水は、阿賀野市小松にある阿賀野川頭首工から取水する三大水系幹線(右岸幹線用水路、新江幹線用水路、福島潟西部幹線用水路)で大半を潤しています。また、排水系統は阿賀野川と新井郷川の二系統に分かれています。
北蒲原郡南部耕地整理組合の始まり
南耕用水開田・区画整理施行地域概要図
北蒲原郡南部耕地整理組合の地域では大正末期、未整備の水田や低湿地に加え、畑地さらには山林原野などが混在し、用水は五頭山系からの山水のみで、毎年のように水不足が発生し、また豪雨時には水田がすぐ冠水するなど生産が上がらなかったことから、農村は疲弊していました。
これを解消するため、人々は組合を設立し、850ヘクタールの開田や1,800ヘクタールへの水を目的に、昭和2年(1927)、7月から用水工事を始め、南耕隧道も含め、12年の歳月をかけて、延長約33kmもの南耕用水が完了しました。
当時の南耕隧道工事現場の様子
戦後、食糧増産運動もあり、この地域の未整理地約2,650ヘクタールの区画整理事業が本格的に計画され、北蒲原郡南部土地改良区が主体となり、昭和25年(1950)に工事着手し、昭和35年(1960)に工事完了しました。
国営阿賀野川用水により整備された水原分水工
しかし、難航に難航を極めた南耕用水も阿賀野川の河床低下や河状が変化したことから、計画取水が困難となり、地域では夜水引きや水争いが繰り返されるようになりました。
この解消に向け、昭和38年(1963)から国営阿賀野川用水農業水利事業で南耕隧道を小松隧道として新規掘削するとともに、山ノ手線が右岸幹線用水路、水原線が福島潟西部幹線用水路と名称を変え、現在に至っています。
「新江土地改良区」の前身は
「新江土地改良区」の前身は、明治23年(1890)の水利組合条例公布に伴い組織された新江水利組合です。その後、新江普通用水水利組合と名称を変更し、さらに土地改良法の制定に伴い、昭和27年(1952)、組織変更して北蒲原郡新江土地改良区となり、平成15年(2003)に阿賀野川土地改良区として新設合併されました。
わたしたちの阿賀野市(阿賀野市教育委員)より引用
新江用水の開削は、享保15年(1730)、松ヶ崎の阿賀野川分水路開削の結果、翌16年の雪解け水により両岸が決壊し、川幅が広がり、河床が低下し、阿賀野川から直接取水していた村々(新発田藩岡方組:安田、分田、堀越、京ヶ瀬、岡方)は、用水の取水ができない状態となり、水が無く困っていました。
新発田藩岡方組は、幕府に阿賀野川上流からの用水取水を願い出て、享保18年(1733)にようやく許可され、翌年から新江用水33kmの工事が始まりました。なお、周辺関係村々へは、「水路開削により被害を与えた場合は、損害を補償する。」という契約条件を交わし了解をとりました。
この用水は阿賀野市渡場付近から取水し、保田付近では旧用水の廃江跡を利用し、分田付近より下流は以前あった流路を再掘削し、享保19年(1734)12月に竣工しました。
しかし、この取入口も阿賀野川の水流が変化し、自然取り入れが困難となったことから、寛延元年(1748)にその上流400mに2カ所の取水口(一之樋、二之樋)が設置されましたが、二之樋は昭和元年(1925)に廃止されました。
なお、施設の管理は、新発田藩が行っていましたが、明治4年(1871)の廃藩置県により、県に移管され、明治12年(1879)には北蒲原郡役所管理となり、大正初め頃には、個別農家から組合が経費を徴収するように変化していきました。
国営新江農業水利事業、阿賀野川用水農業水利事業の開始
国営新江事業により造成された新江取水口
昭和14年(1939)頃から新江用水一之樋は、阿賀野川上流の発電所建設などにより、河床低下や土砂堆積が発生し、渇水期には取水ができなくなりました。このことから、国直轄工事として昭和23年(1948)に、その上流の赤坂山の出鼻に新しい取入口を完成させました。
新江用水路はその後も改良に改良を重ねて、昭和29年(1954)、国営新江農業水利事業が完了し、その下流部は国営付帯県営新江用水改良事業として引き継がれ、阿賀野市寺社付近より下流約45kmの流路を昭和40年(1965)までに完成させました。
桜並木の中を流れる新江用水路
しかし、昭和24年(1949)以降利用されていた赤坂山の取水口は、その後の阿賀野川の水位変動と区画整理事業により、用水不足が発生し、抜本的な対策が望まれていました。
その当時、阿賀野川の左岸側の新潟市秋葉区、五泉市を含めた全体約16,800ヘクタールのかんがい用水改良を目的とした阿賀野川頭首工(国営阿賀野川用水農業水利事業)が工事中で、新江用水から取水する農家の人々は、昭和39年(1964)の新潟地震やその後の下越・羽越水害などで、ブロックや石積み用水路が崩壊、漏水を繰り返していたことから、国営事業への編入を望み、地域一体で工事が行われました。
阿賀野市六野瀬地内にある国営新江事業竣工記念碑
昭和42年(1967)、新江幹線水路へは阿賀野市六野瀬地内に新たな連絡水路を造成し、その後、国営、県営事業で、幹線用水路も含めた約27kmの三面張コンクリートに改修し、現在に至っています。
この阿賀野川頭首工の完成により、赤坂山にあった新江用水取入口とその上流小松地内にあった南耕用水取入口は統合されました。