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【新発田土地改良区】
「新発田土地改良区」を紹介します
新発田土地改良区の管内図(この地図は国土地理院発行の5万分の1地形図を使用)
新発田土地改良区は平成28年2月1日に米倉土地改良区と合併しました
合併した米倉土地改良区の紹介はこちら
新発田土地改良区は、昭和32年(1957)に北蒲原土地改良区新発田事業所から独立し設立されました。
北は、日本海東北自動車道周辺まで、東は加治川、南は下岡田・東新町・島潟、西は富塚町・舟入町を範囲とする土地改良区は、設立当時は約1,500ヘクタールの耕地を管理していましたが、その後は市街化が進み、現在約790ヘクタールの農業用施設を管理しています。
なお、新発田土地改良区は平成28年2月1日に米倉土地改良区と合併しました。
明治30年代から行われた新発田土地改良区管内の耕地整理
食料の安定供給を進めるため、明治32年(1899)に「耕地整理法」が成立しました。交換分合と区画整理を目的に「区画整理への強制加入」により事業ができるようになりました。また、明治38年(1905)には、「耕地整理法の改正」が行われ、「かんがい排水の整備」も可能となりました。
明治36年(1903)、鴻沼村(昭和15年(1940)に新発田町に合併)では、村内全域で4つの耕地整理組合を創設し、明治38年(1905)に西名柄(中田、長畑)耕地整理組合が工事着工し、続いて新井田(今の新発田市城北町・緑町付近)、西部(中谷内、桑口、道賀)、東部(西塚目、東塚目、板敷、島潟)の各耕地整理組合もつぎつぎと着工し、大正3年(1914)3月に897ヘクタールの整備が完了しました。
この整備によって、一筆ごとの耕地面積が大きくなり、また農作業も容易になり、用排水路、農道は便利になり、10アール当たりの平均収量が4俵から5俵、農作業時間も軽減されるなど大きな効果が見え始めました。
昭和10年頃救農土木事業で行われた暗渠工事
その後、大正末期から昭和初期にかけて米価が大暴落し、農村部は疲弊し困っていたことから、昭和7年(1932)、国は農村救済のために積極的な公共投資政策(「救農土木事業」)を行い、この地域でも暗渠排水工事などが行われました。
昭和33年頃の西名柄地内の暗渠工事
戦後になり、農地解放といわれる制度改正により、小作農から自作農に変わり、農業者の社会的地位が確立されました。
昭和24年(1949)に土地改良法が制定され、戦後の食糧不足解消に向け、猿橋地区全域でも耕地整理が実施されるようになりました。また、耕地整理が完了していたちいきでも、排水不良を解消し生産性を上げるため、昭和29年(1954)以降、盛んに暗渠排水工事や農道整備工事が盛んに行われました。
その後、昭和41年(1966)の下越水害により被害を受けた西名柄周辺では、災害復旧により20アールの区画に一部整備されました。
新発田北部地区で行われた暗渠排水工事の様子
近年において、これまで整備された10アール区画では農作業効率も悪く、農業機械の大型化に対応できないため、平成8年(1996)、新発田北部地域のほ場整備推進委員や集落の代表者などの努力により、一区画50アール~1haの大区画ほ場整備、新発田北部地区(274ヘクタール)が採択され、平成16年(2004)に完了しました。
この事業により担い手への農地集積が進み、転作大豆を中心とした大豆を生産する生産組合やアスパラガスを生産する生産組合(道賀生産組合、桑ノ口生産組合)などが立ち上がり、今では新発田市が県内一のアスパラ産地となっています。
また、平成25年(2013)からは、隣接する中曽根地区(A=87ha)において大区画ほ場整備事業が始まりました。
戦後に進められた排水改良
新発田川の改修により石積みされた護岸
戦前までのこの地域は、隣接する加治川は河床が高く排水することができなく、洪水時にはしばしば湛水被害を受けていました。
この排水改良を行うため、阿賀野川右岸地域一体で昭和16年(1941)から阿賀野川沿岸農業水利事業(排水:~昭和48年)が開始されました。
地区内を流下する中田川(新発田川自然排水路)や入舟町から下流の新発田川(新発田川分線)、日渡周辺を流下する赤沼川排水路については、この事業で改修新設された排水路です。
昭和41年7月17日下越水害で加治川の堤防決壊の様子
新発田市街地の排水や水田の排水は、今も新発田川を流下し、新井郷川排水機場直下流で合流していますが、昭和41年(1966)の7.17下越水害、翌年の8.28羽越水害を受け、新発田川や太田川からの洪水をそのまま新潟東港の日本海に流す新発田川放水路が計画され、平成11年(1999)に完成し、洪水時には大きな効果を発揮しています
なお、下越水害では、加治川右岸側、向中条で堤防が決壊し、その後、新発田側の西名柄地先で決壊しました。下流の村々や周辺の耕地も湛水被害を受けたことから、西名柄地先の加治川曲線部の河道1.1kmを直線化するために、西名柄集落42戸の集団移転が開始されましたが、翌年の羽越水害で再び破堤し、2年連続で被害を受けました。
桜で賑わう昭和30年代の加治川の様子(「桜の里かじかわ」より引用
この水害を契機に当時、農業用水ダムとして計画していた内ノ倉ダムは、農水、新発田市の上水、洪水調節の機能を持つ多目的ダムの建設に変更されました。
また、この水害により大正3年(1914)に竣工した加治川分水路、大正天皇即位の記念植樹「長堤十里、日本一の加治川の桜」6,000本は、すべて伐採されました。現在は「加治川を愛する会」「加治川さくらの里づくりの会」などの努力により、その復元が進められています。
新発田市を水害から守る西名柄排水機場
また、近年、新発田土地改良区管内では、市街地の急速な開発により、周辺の水田で湛水被害が発生していたことから、湛水防除事業新発田1期地区(昭和63年~平成9年)で採択され、中田川への流水を一時的に加治川へ放流させる西名柄排水機場、道賀排水機場のほか、排水路5.1kmを整備しました。
また、市街地の上流、五十公野周辺から町中へ流入していた洪水を回避するため、新発田2期(平成1年~平成12年)として、白新線に平行に流下する赤沼川排水路や中ノ橋周辺の湛水を防止するための排水機場や排水路も改修されました。
用水改良の始まり
昭和44年に完成した加治川第1頭首工
昭和25年(1950)、国営阿賀野川沿岸大規模事業として、阿賀野川用水区域を拡大してこの加治川沿岸地域約8,500ヘクタールまで阿賀野川からの用水を供給しようとしていましたが、水系秩序を守ろうとする意見もあり、昭和33年(1958)、加治川地域は阿賀野川用水事業から除外され、加治川沿岸地域独自の事業として計画が進み始めました。
その当時は、加治川から直接取水する乙見江、佐々木江、新発田江、宮古木江など20箇所以上もの堰や樋管で取水していましたが、渇水期には水位がすぐに下がり、その少ない水を取水するため、上流と下流で水争いが絶えませんでした。この水不足を解消するため、国営加治川農業水利事業が計画されました。
昭和39年(1964)から始まった国営加治川沿岸用水改良事業は、昭和41年(1966)の下越水害、翌年の羽越水害を受け、農業用水(7,445ha)、新発田市の水道のほか、治水機能を加えた内ノ倉ダム(貯水量1,690万立法メートル、昭和48年10月竣工)と第1頭首工(昭和44年3月完成、A=4,198ha、Q=15.29立法メートル/s)、さらにその下流に第2頭首工(昭和45年7月完成、A=3,247ha,Q=12.33ha)、幹線用水路7路線28.8kmの工事を行い、昭和50年(1975)、3月に完了しました。
西名柄地内を流下する左岸幹線用水路
新発田土地改良区管内の上流区域への用水は、第1頭首工から国営新発田江支線用水路、昭和47年(1972)頃から工事が行われた附帯県営新発田江用水路、その下流の板敷用水、杉原用水路を流れ、岡田・杉之越地域へ配水されています。
街中を流れる西名柄用水路
また、下流の西名柄、中谷内・道賀地域へは、昭和61年(1986)頃までに第2頭首工から西名柄用水、左岸幹線から焼橋用水路、大正用水路が整備され、現在に至っています。この通水により、今まで排水混じりの用水が一転して加治川からのきれいな用水となったことで、農家の人々は大変喜び、農業に一段と希望が湧いたそうです。
しかし、西名柄用水路は、現在、市街地の中を流下する水路となり、施設も老朽化してきたことから、土地改良区ではその施設の維持管理に非常に困っている状況です。