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3 塩津潟(紫雲寺潟)干拓

印刷 文字を大きくして印刷 ページ番号:0058280 更新日:2019年3月29日更新

 17世紀の江戸時代、現在の新発田市紫雲寺地域、胎内市塩津地域には、約2,000ヘクタールにも及ぶ広大な沼地が広がっておりました。これが、塩津潟(紫雲寺潟)です。

江戸時代に新発田地域で行われた主な開削イメージ
江戸時代に新発田地域で行われた主な開削

 この沼地の水は、日本海側の砂丘地でせき止められ、加治川から阿賀野川へ流入し、信濃川、新潟町へと流れていました。また、北側には胎内川が流れ、荒川の河口へと通じていました。
 塩津潟は、当時幕府領で、村上藩・新発田藩が管理をしていました。村上藩は、この周辺でたびたび洪水に遭っていましたので、新発田藩に長者堀(落堀川)の開削をお願いしました。しかし、周辺の水位が低下し、新潟港の舟運に影響が出るのを恐れ、幕府は許可をしませんでした。やむなく、村上藩は塩津潟と胎内川をむすぶ開削(高畑開削)を元禄11年(1698)に行いましたが、排水の効果はありませんでした。
 長者堀の掘削はその23年後の享保6年(1721年)に、ようやく許可され、延長約3km、巾約20m、深さ約2mの工事が行われましたが、翌年にはすぐに土砂で埋まってしまいました。

現在の落堀川
現在の落堀川(長者掘)

 その当時、全国各地域で人口が増え続け、食料が不足し生活に困窮する人が増え続けていましたので、幕府は享保の改革の一環として、財を持っている人による「新田開発」を推奨していました。
 江戸で商売をしていた竹前小八郎はその話を聞き、信州米子村の庄屋を務め、山で硫黄を掘って江戸で火薬を売っていた兄、権兵衛と一緒になって、長者堀の再掘削と潟へ流入する川の締め切りなどを行う新田開発を幕府に願い出ました。
 開削には、莫大な資金が必要でしたので竹前兄弟は全財産を投資し、また江戸で旅籠をしていた会津屋佐左衛門、柏崎の宮川四郎兵衛の出資協力を受け、享保13年(1728)、長者堀の再掘削に延べ3万人を動員し、1ヶ月で約2.6km、幅36m、深さ4mを開削したほか、加治川からの流入を締め切る工事(境川の締切)を完了させました。

紫雲寺にある竹前小八郎のお墓
紫雲寺にある竹前小八郎の墓

 このあと、弟の小八郎が病気で亡くなりましたが、兄の権兵衛は、最後の工事となる今泉川(菅谷川または坂井川ともいう)を締め切って、姫田川、加治川へ流す工事を続けようとしました。しかし、資金不足を理由に幕府は、この瀬替え工事を引き継ぎ、享保17年(1732)に近隣の人々に請け負わせて工事を完成させました。
 この年の春には雪解け水と大雨が大増水となり、長者堀の両岸を決壊させ、河床が下がり広大な湖底が姿を現しました。これらの工事や洪水などで、塩津潟(紫雲寺潟)の1,900ヘクタールが干上がり、幕府は竹前権兵衛にこれまでの功績をたたえ、500ヘクタールの耕地を与え、権兵衛はそのうちの150ヘクタールを宮川四郎兵衛に、50ヘクタールを会津屋佐左衛門に分け与え事業を精算しました。残りの1,400ヘクタールについては領内の農民や町民に分譲され、周辺には42の村々が誕生しました。

 なお新発田藩は、竹前兄弟の干拓工事の1年前となる享保12年(1727)に加治川の下流域が増水・湛水するのを防ぐため、砂で埋まりつつあった蓮潟から島見前潟に流れていた川を、新たに阿賀野川に直接流す二ツ山開削工事を行っています。これが当時の加治川となり、今の派川加治川になっています。
 さらに新発田藩は、加治川下流の洪水被害の軽減を図るため、幕府に福島潟周辺の新田開発地の一部を上納することとして、享保15年(1730)に新潟市松ヶ崎地内で阿賀野川の上水を日本海に分水する工事を実施しました。
 しかし、その翌年、翌々年の洪水で、この松ヶ崎分水路は大きく決壊し、分水路が阿賀野川の本流となり、水位が大幅に低下し、福島潟周辺の耕作地は干上がり、今度は用水が不足する状況が発生しました。新発田藩は新たな用水対策として、阿賀野川上流の阿賀野市渡場からの取水を計画し、新設用水路で土地をつぶされる上流地域の人々と調整を図りつつ、幕府の許可を得て新江用水の工事を実施しました。また、分水路が本流となり新潟港への水量も低下したことから、新発田藩はその後、小阿賀野川や通船川の再開削を行いました。

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