本文
8 福島潟干拓のあゆみ
干拓地も含め、約4㎢の福島潟
正保越後国絵図(正保4年(1647))によれば、福島潟は横3,400m、長さ4,900mと記載され、県内では特に大きな湖沼でした。当時、この新発田地域には、ほかに塩津潟(紫雲寺潟)や島見前潟があり、川の遊水池として水害、水利調整池としての役割を担っていました。
湖沼が多かった新発田藩では、自作地や小作人として働く場所も少なく、藩の収入を確保するため、湖沼の排水改良を盛んに行いました。
しかし、福島潟では、ほかの2つの潟に比べ水深が深く、当時の土木技術では対応出来ませんでしたが、福島潟周辺の農民は、どんな苦労をしても田を広げ、1本でも多くの稲を植えたいと願っていました。
享保15年(1730)、新発田藩は幕府の許可を得て、信濃川と合流していた阿賀野川の上水を日本海に直接流すため、延べ11万5千人も使い、松ヶ崎分水路工事を行いました。その翌年の雪解け水で川幅が広がり、その分水路が阿賀野川の本流となり、福島潟周辺の水位は2mも下がり、3,800ヘクタールもの土地ができ、今の葛塚、太田、木崎、鳥屋、早通の集落が生まれました。
茶色:丈右衛門が干拓した土地
宝暦5年(1755)には、柏崎の山本丈右衛門が幕府から許可を得て、福島潟の干拓工事を始めました。丈右衛門は、潟に流れ込む佐々木の古太田川の水を新発田川へ流すために、太田川を開削したり、新井郷川を直したりしました。潟の周り17の集落の人々が仕事を割り当てられ、丈右衛門に協力し、15年もかかってようやく189ヘクタールを干拓しました。
十三人衆が干拓した場所
寛政2年(1790)には、水原代官所が市島徳次郎をはじめとする水原の13人に福島潟の干拓をさせることにしました。その方法は、土を掘り上げて囲土手を築き、囲いの中にマコモを植えて、地面を固め、上流から土を流して沼地を埋めたり、新井郷川の名目所に川を掘って水はけをよくしたりして干拓を進めました。
文政7年(1824)、幕府から13人衆の干拓を引き継ぐように命ぜられた新発田藩は、川の上流から大がかりな土砂を流し始め、また、山倉新道、飯塚新道などの土手を築いて福島潟を仕切り、干拓を行いました。
このようにして、13人衆や新発田藩で干拓された453ヘクタールの土地は、近くの村々に売り渡されたほか、まだ干拓されていない水面までも売られました。
明治から昭和にかけて干拓された場所
嘉永5年(1852)には、新発田藩の庄屋であった斎藤家(七郎次永治)が新鼻新田を藩から買い取り、「新囲」の干拓を始めました。斎藤家は、明治14年には福島潟新田の約320ヘクタールのうち190ヘクタールを所有していましたが、明治19年には、新潟の鍛工場、沼垂の精米所、赤谷・間瀬の鉱山、製塩、蒸気船三吉丸の経営に取り組んでいた弦巻家が福島潟と新鼻新田の約160ヘクタールを所有するようになりました。弦巻家は、「新々囲」と「梅雨湖」の干拓を始めましたが、明治29年には、水原の豪商佐藤家に買い取られ、干拓が引き継がれました。
その後、福島潟は、明治44年に“千町歩地主”といわれる市島家のものとなり、「山倉囲:明治45年」や「市島囲:昭和12年」干拓を行い、昭和31年まで潟を所有していました。
昭和20年頃から30年頃の干拓
なお、大正9年から新井郷川を阿賀野川から切り離し、日本海に流す工事が、昭和8年まで行われ、水はけが前よりも良くなり、福島潟はかつての10分の1くらいの大きさになりました。
さらに国営造成施設となる新井郷川排水機場が昭和36年から本格稼働し、水位はさらに20cmから50cm低下し、周辺の水田は、湿田から乾田に変わりました。
昭和40年代の国営干拓地
また、昭和35年頃からは食糧増産に向けた湖面の全面干拓の声が上がり、昭和41年から国営福島潟干拓建設事業が始まりました。しかし、その年の7.17下越水害、翌年の8.28羽越水害により、干拓は潟の全面干拓から南半分の168ヘクタールに変更し、昭和43年から工事に着手し、昭和52年3月に完成しました。