ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
現在地 トップページ > 分類でさがす > 県政情報 > 県の仕事と組織・付属機関 > 佐渡地域振興局 地域振興グループ > 買若梅(マイ・ロアメイ)さんの佐渡レポートvol.9

本文

買若梅(マイ・ロアメイ)さんの佐渡レポートvol.9

印刷 文字を大きくして印刷 ページ番号:0056326 更新日:2019年3月29日更新

 中国出身、佐渡在住の買若梅(マイ・ロアメイ)さんによる佐渡レポートを掲載しています。
 第9回目のテーマは「佐渡の能楽」です。

佐渡の能楽

殺生石(後シテ 野干) 祝忠生先生の画像
殺生石(後シテ 野干)祝忠生先生

 私たちの住む土地。土地には必ず庶民が伝えてきた芸能がある。伝統芸能の魅力は、溢れる郷土の匂いと素朴さにあります。佐渡で生まれた芸術ではありませんが、数百年の間、庶民が守り育てて来た伝統芸能。それが「佐渡の能楽」です。
 私が佐渡に住んで最初に能に興味を引かれたきっかけは、神社に繋がる小さな能舞台でした。佐渡には、山奥のどんな小さな村にも能舞台があります。聞けば、かつて佐渡島内に200以上あったと言います。少なくなったとは言え、現在32ほど残っています。これだけの能舞台が、一つの島に残っているのは日本の中で佐渡だけです。

面あわせの画像
面あわせ

 好奇心に誘われ、初めて能を鑑賞に行きましたが物語の意味など、全く解りませんでした。長く厳しい冬が去った春のある日、偶然「佐渡能めぐり手帖」が目に留まった。一枚一枚の美しい面と衣装を着けたシテ(主人公)の舞いの写真を見て、夢のような世界に出合った思いがしました。主人公の悲しい表情の中から、何を感じ何を語りたいのかが解るような気がしました。沈黙の面、静かな手足の動きの中に、能の不思議な世界に引き込まれ、もっと深い意味を知りたい強い思いにかられました。

井筒の画像
井筒

 能は日本の代表的な古典芸能です。題材は史実を基にした日本の著名な古典文学作品から、中国の歴史物語をテーマにしたものもあります。能の台本は「謡曲」といいます。曲目は200種類くらい。能の伝統的な分類は、物語を神(しん)・男(なん)・女(にょ)・狂(きょう)・鬼(き)の五つに分け、「五番立」と呼びます。これは正式な一日の演能のプログラムでもあります。
 五種の謡曲中、主役である神、戦闘や争いで死んだ武将、女性など様々な霊が現われ現世の人間と霊界の亡者との対話を通じて、主人公の心の世界を表現する物語。そして愛するわが子を失い狂女に変貌する母親。行方知れない恋人を探しつかれて、流浪し狂ってしまう女。最後は鬼や妖怪と化した「鬼畜物」の曲目もある。
 舞台は「序・破・急」の順に速度を増し、クライマックスに向け緊張度を増して、盛り上がっていきます。能舞台は「幽玄」「夢幻」の世界が、観客の前に現われます。さて能楽は、どこで生まれ伝承されて来たのでしょうか。

祝忠生先生の画像
祝忠生先生

 原始的な日本の舞踏は祭祀に奉納する「神楽」といいます。日本の奈良、平安朝初期(中国唐の時代)に中国大陸から「楽舞」が日本に渡り、伝えられました。楽舞は主に伎楽・舞楽・散楽です。この中で散楽が、能楽に大きな影響を与えたと伝えられています。平安中期に散楽は日本名「猿楽」という呼称になりました。
 時代の変化とともに「散楽」も二つの枝に分かれ、散楽の雑技の部分は「田楽」などの芸能に引き継がれ、「物まねする」部分は、後期の「猿楽」に吸収され、最終的に新しい演劇へと変化し「能楽」が誕生したとされます。後期の能に影響を与えたのは民間芸能の「延年」と「田楽」になります。「能」の名称も明治時代に確定したものです。

佐渡本間家能舞台の画像
佐渡本間家能舞台

 日本能楽の基礎を作ったのは、室町時代の最も傑出した猿楽師の観阿弥と世阿弥親子である。当時、有名な「座」は四つあり、「大和猿樂四座」と呼ばれています、現在の日本能楽の流派である観世・宝生・金春・金剛です。 観阿弥は観世流の創始者である。観阿弥の三番目の息子世阿弥は自分の一生を能楽に捧げた天才芸術家です。晩年、世阿弥は京の権力者の後ろ盾を失い佐渡島へ流された。佐渡では小謡曲舞集(しょうようくぜまいしゅう)「金島書」を書き残している。「金の島」は佐渡のことである。遠流の罪で流された世阿弥の、佐渡での生活の様子は記録も伝承すらも残っていない。72歳で佐渡へ流され81歳で生涯を終えたとされる世阿弥の足跡は、何処にも見当たらないのです。

祝先生とお弟子さんの画像
祝先生とお弟子さん

 能楽を知るためにまず、世阿弥の「花」の世界を知っておきましょう。世阿弥が書いた能楽論「風姿花伝」の言葉に「いづれの花か散らで残るべき」、「散るゆえによりて咲くころあれば、珍しきなり」、「住する(こだわる)ところなきをまづ花としるべし」。技を克服し、技術の練磨と工夫の徹底によって役者の「心のままに」生涯咲き続ける花を追求している。
 「まことの花は工夫の花とも言える。よって、花は心、種は技」。「花と面白さ、珍しさはおなじもの」と説き、能の基本を「秘すれば花」という有名な言葉で残している。世阿弥の晩年も秘かに消え、記録は跡形も無いが、生き方そのものが「秘すれば花」の言葉そのものに思え、遠い昔の世阿弥の生きた佐渡を思い描いた。

祝先生のお弟子さんの画像
祝先生のお弟子さん

 佐渡島に能楽が伝承されたのは約400年前。初代佐渡奉行の大久保長安が猿楽師であり能を佐渡へ持ち込んだのが、始まりと伝えられている。能楽師の一団とともに佐渡へ、やってきた大久保は相川春日崎に最初の能楽堂を建立している。
 能楽は武家のたしなみとして伝承され、1600年代初めに佐渡奉行として着任した大久保は奉行所の侍の間で能楽を楽しんでいた。江戸時代中期の元禄時代以降、奉行所が庶民の演能を許可し島の隅々にまでお百姓や、士農工商の誰もが能舞台に立つようになっていった。
 その背景に、佐渡宝生流本家の潟上本間家の存在があり、武家から庶民の能楽への移行に強い影響力を持っていた。佐渡には観世、宝生の2流派があったが、三菱金属工業が守っていた観世流は、佐渡鉱山が1952年に大縮小し従業員の急速な減少とともに衰退の一途を辿り消えかかっている。現在の佐渡は本間家を中心にした宝生流が主流になっている。

葵上の画像
葵上

 私は佐渡の能を知るために、佐渡宝生流師範で本間家の舞台を護る、佐和田の祝忠生先生を訪ねました。この日は運よく、祝先生が本間家能舞台でお弟子さんに能の手ほどきをする日でした。祝先生の第一印象は、60歳を過ぎても背筋が伸び、優しさの中にも能に話題が移ると時折厳しい目つきも見せる「能役者」の雰囲気を感じました。
 NTTを退職された先生は、能との出会いを話してくれました。「1973年の年に職場の同僚から、公民館の「能楽講座」に誘われたのが始まりです」と教えてくれた。「誘われるままに行った能楽講座は、知識も無く能の物語や基礎など何も解りませんでした」と正直に当時を思い浮かべ、話してくれました。

真剣に稽古する若者の画像
真剣に稽古する若者

 能舞台にあがるのは主役を「シテ」、シテのともを「ツレ」、脇役を「ワキ」、ワキのともを「ワキヅレ」と言います。また、主役たちの動きを誘導する音楽集団を「囃子方」、「地謡」と呼び、物語の進行を謡と鼓などの音で盛り上げます。能楽の勉強は「舞い」だけでなく、謡、鼓、笛の練習も重要なのです。特に舞の役作りは、動作の真似だけでなく曲目の役柄を心で、どのように表現するかが言葉では教える事の出来ない技であり心なのです。
 困難な努力を続けて来れたのは、やはり言いがたい能の魅力を感じるからなのです。初舞台は1977年に踏み、その後は様々なツレ、ワキを演じました。

鵺の画像

 初シテは、今から13年前で曲目は「船弁慶」の前シテ(静御前)でした。初めて面(おもて)をつけて観衆の注目を浴び、とても緊張し頭の中を整理できず、ただ女性の役なので「女らしさ」を、舞う事で表現すること、セリフを間違わない事に集中しました。その後は「自分の個性の活かせる役作りとは何か」を問う事に心を傾けてきました。能面の後ろは、演技を発揮する上で限りなく大きく広い空間が広がって見えます。
 祝先生が能楽の世界に入って30年の歳月が過ぎました。現在、シテを演じた曲目は10曲余り。「能の世界の魅力は無限大で、とても奥深いものがあります」。先生のお話をお聞きして、私も能の世界をもっと知りたくなりました。

能面の画像
能面

 佐渡の能について祝先生は「昔は神社のお祭り気分で、みんなが弁当持参で気楽に能を楽しんでいた。能を演じるのは、農家や公務員など、誰でも参加していた。能は佐渡にとっては伝統芸能と言える。現在の佐渡は後継者の育成が最も必要な時代になった。佐渡高校能楽クラブで講師を務めたこともあります。いまは30人の弟子がいます。本当の能楽界には、決まりごとが沢山あって、とても厳しい世界です」。

「竹生島」の画像
「竹生島」

 舞台の傍で祝先生と話していたら「稽古の時間です」との声が聞こえた。私は先生の後について行った。そこは稽古場で、きょうのお弟子さんは女性の方だった。能楽は男の芸術と聞いていた私は少し驚いた。佐渡の能楽は私の知識と違っていた。これは佐渡の能楽が歩んできた独特の風習があると直感した。
 先生に着いて来た場所は鏡の間だった。この部屋で目に入って来たのは、そこに置かれた鏡や能面に気を引かれ、不思議そうな顔をして見ている私を見つめて、お弟子さんが能面や、面の役どころについて教えてくれました。

「運歩」の画像
「運歩」

 能楽の中で能面は重要な命です。一般的に演能は能面をつけて演じるか、つけないで演じるかの二つに分かれます。通常の主役(シテ)は面を付けて能を舞い、若い女性を演じる時は小面を使い、老人の役は翁や尉の面を用います。
 そのほかに神面、鬼面などがあり、祝先生が面を使うとき、神経を使うのは正しい位置に面を付ける事です。面の上下、左右の小さな動きで微妙な感情を観客に伝えなければならないからです。うっかりと能面の位置を間違えば、その日の舞台は最初から前途多難な世界になってしまいます。面の位置は大切です。

佐渡の能の後継者たちの画像
佐渡の能の後継者たち

 祝先生のお弟子さんと話しているうち、お弟子さんが私に「能面をつけてみたら」と無邪気に言った。私の予備知識ですが、ただの能面は能面でしかないが、能を演じる役者がつけると物語の主役に様変わりして、蘇る心霊の魔力を持つと伝えられており、神聖な畏れを感じます。私は複雑な思いで能面をつけてみました。
 小さな目の穴から見る外界の視野は狭く、この狭い視野で物語の感情を表現するのは、とても困難な技術と感じました。面を観客の視点から計算すると、面を上向きにすると「喜び」。下向きであれば「哀しみ」という基本的な感情表現を聞かされましたが、私は面を被れば自分の表情も人に見えず、世間が分からないと簡単に思った。だけど、能の世界はもっともっと深くなるばかりです。

「幽玄」の世界の画像
「幽玄」の世界

 能舞台には基本的に、背景に緑の松の木が描いてあります。
 祝先生と弟子の稽古が始まった。謡の声の出し方、伸び、抑揚に指導の声が入ります。仕舞の手足の動きに緩(かん)=ゆるやか、急(きゅう)=スピードの二点に厳しく指摘が入る。終わりの無い芸能に指導者の情熱的な叱咤の言葉が飛ぶ。ゆるすぎても、急ぎすぎても師弟は練習に満足を与えない。
 役者が能舞台に立つまでには、本人は元より多くの裏方の汗が流され、苦労が結集して本番を迎える事ができるのです。終わりのある学習はないのだと思いました。

 稽古が終わった後、祝先生が能舞台の構造の説明をしてくれた。そして私を舞台後ろの通路に案内してくれ「ここは地謡方のグループが出入りする場所です」と教えてくれた。普段、能舞台周辺は閉じられている。この通路は暗かったが神秘的な空間に思えました。

 祝先生に一日、能の学習を受けた私は多くの能楽の知識を得る事が出来ました。その後、再び能を鑑賞したい思いにかられた私の足は夕刻の能舞台に向かっていました。周りに小高い松の木が延びて、暗がりにかがり火が焚かれるパチパチという音が夕闇の空間の中で象徴的でした。夜、薪の明かりと僅かな照明で鑑賞する「薪能」で、この日の曲目は「竹生島」。物語は湖の主、龍神と弁財天の対話の話です。その日神社の境内は多くの観客がいましたが、静寂そのものでした。笛、鼓(つづみ)、そして独特なかけ声の中で演能が始まりました。静かな夜の空間、夢の中にいるような世界。この様子が、伝わるでしょうか。

 この空間にいて、やっと世阿弥の花(心)の世界を感じ、世阿弥が佐渡に残していった永遠の心を思いました。佐渡島の人々は長い時間、夢のような世界を大切に守っている。

 世阿弥が能楽の基本を花に喩えたが、佐渡の人々の能は野の花のように自然に伝承されています。佐渡の美しさは能に限らず「幽玄」に繋がっていると思いました。

日本語翻訳: 磯野 保
参考資料:平凡社 別冊太陽25「能」


「買若梅(マイ・ロアメイ)さんの佐渡レポート」のトップページに戻る

 

 

<外部リンク> 県公式SNS一覧へ