ページ番号を入力
本文
「いいねかっちゃ佐渡」は、島外の方々があまり知らなそうな佐渡の魅力を、佐渡地域振興局の広報広聴チーム員が取材をして、発信するものです。
皆あまりに有名な「道遊の割戸」の景観は佐渡金銀山のシンボルとなってきましたが、従来西方向から描かれたり、撮影されたものが多かったと思います。今回、あらためて様々な方向から「道遊の割戸」を見てきたので、そのレポートをお届けします。
道遊山という標高255.9mの山の中央部に道遊脈と呼ばれる鉱脈があったために、その鉱脈部分が人力で掘り下げられた結果、山が二つに割られたような景観となりました。江戸期には「青柳の割戸」と呼ばれていました。これは相川金銀山最古の採掘地(1601年発見)で山頂部の割戸は幅30m、深さ74mにおよぶ巨大な痕跡を残し、相川市街地の西端にある春日崎からも見ることができ、まさに佐渡金銀山のシンボル的存在となっているものです。江戸時代の絵図や絵巻にも、当時から深く刻まれたV字型の景観が描かれています。
相川八景 道遊秋月 山尾足政 筆(大安寺蔵)
※許可を得て掲載しました。
明治時代になると機械やダイナマイトの使用により、本格的な露頭掘り採掘が始まりました。明治32年(1899)には鉱量の豊富な道遊脈の直下に坑道(現在の観光コース)が掘られ、露頭掘りと坑道掘りが本格的となり、掘られた鉱石は道遊坑に落とされ、トロッコで坑外に搬出されました。
明維以降に再開発された道遊の割戸の採掘跡 高任公園からの道遊の割戸(西方向から撮影)
2023年1月24日撮影 雪景色の道遊の割戸
ゴールデン佐渡の観光坑道「史跡佐渡金山」の入口からスカイライン方向に数百メートル進んだところにある第5駐車場から見る道遊の割戸も、壮大な眺めが展開されています。右端の道遊の割戸に対して、左側の大絶壁は、佐渡金銀山最大の鉱脈である青盤脈(東西2100m、脈幅6m、深さ500m)を露頭掘りし、膨大な量の鉱石が切り崩されて除去された後の姿です。現在の景観は近代以降の採掘によるものです。壁面に黒く穴の断面が見えます。狸穴とは「細い鉱脈をたどりながら掘り進んだ坑道で、やっとくぐれる位の小さなものが多い。」と史跡佐渡金山の宗太夫坑坑内の説明看板で記載されています。
第5駐車場からの青盤脈の露頭(写真右は道遊の割戸)(北方向から撮影)
史跡佐渡金山 宗太夫坑坑内の狸穴 同所の解説版
道遊の割戸に隣接する濁川南岸の標高150m~200mの台地や斜面に、国の史跡で上相川(かみあいかわ)という鉱山集落跡があります。「相川」という地名の発祥地で、江戸時代初期に最盛期を迎えました。慶安五(一六五二)年に上相川に二十二の町があり513軒の家数があった記録が残されています。現在は無人の地区ですが、ここから道遊の割戸を南方向から眺めることができます。一般的な構図では左右にVの字が開いているのに対して、この構図では左側頂上部の内側が見えている状況です。
上相川からの道遊の割戸(南方向から撮影)
相川のまち歩きメニューの定番として人気のある「京町コース」を歩きながら道遊の割戸を眺められるポイントが一カ所だけあります。京町通を旧相川拘置支所から100mほど金山方向に進んだ右手に休憩所の「あずやま」があり、そこから金山の方向を望むと見事に山を断ち割った道遊の割戸の景観が見られます。コース周辺には万照寺、無宿人の墓、時鐘楼、佐渡版画村美術館、佐渡奉行所などがありますので、それらも巡りながら歩かれると楽しいのではないでしょうか。
京町通りからの道遊の割戸(西方向から撮影)
佐渡相川郷土史辞典の「青柳割戸(道遊の割戸の旧名)」の項で本間寅雄氏が佐渡鉱山の鉱場課長の著作で述べられた言葉を紹介しています。それによると脈石が極めて硬く、脈中の金銀が希薄、かつ斜面が急で掘るのが技術的に難しかったので、あの見事な山容が後世に残ったようです。道遊山全体に平均して金銀が含まれていて、かつ採算がとれたのであれば、山全体を掘り崩していたかもしれませんが、あのV字の部分にのみ鉱脈が集中していたことで、採掘がそこのみ行われることとなり、あの特異な景観が形成され、相川金銀山のシンボルとなり、平成六年に国の史跡に指定されました。
今回のレポートをまとめるにあたり、佐渡金銀山ガイドブック(佐渡を世界遺産にする会・佐渡市)、佐渡相川郷土史辞典(相川町)、ジオパーク解説書(佐渡市教育委員会・佐渡ジオパーク推進協議会)などの書籍を参考にさせていただきました。また佐渡を世界遺産にする会事務局長庄山忠彦様、相川ふれあいガイドの会長斎藤本恭様に様々な助言をいただきましたので、御礼を申し上げます。