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【上越】「上越地域における新田開発のあゆみ(用水編)」 を紹介します

印刷 文字を大きくして印刷 ページ番号:0046781 更新日:2019年3月29日更新

(11) 関川上流部の電源開発と野尻湖の利水

関川・池尻川から揚水されて満水となる野尻湖のイメージ画像
関川・池尻川から揚水されて満水となる野尻湖

 関川水系における水力発電は、関川上流部で明治39年(1906)に高沢第1発電所が信濃電気(株)により建設され、関川中流部では翌年に上越電気(株)により蔵々発電所が建設されたのが始まりです。各々の会社は合併などや昭和17年からの電力の国家管理時代を経て、戦後の昭和26年(1951)に電力再編成令により東北電力株式会社に継承されました。
 現在、笹ヶ峰ダムから放流された水は、関川水系にある12ヶ所の発電所を順々に通過して約3万戸分の消費電力に相当する電気を発電し、最後に上江幹線用水路や中江幹線用水路等の用水路を経由して高田平野の水田に達し、農業用水として無駄なく使われています。
 明治45年(1912)2月、上越電気(株)は糸魚川電気(株)と合併し、越後電気(株)に改称しました。電力側としては、夏・冬の渇水期に野尻湖の水を利用して発電したかったこと、一方で中江用水普通水利組合は夏のかんがい期に水を切望していたことから、「野尻湖の貯水量の増大」という両者の利害関係が一致し、協力して利水に努めました。

野尻湖へ水が供給される揚水所の画像
野尻湖へ水が供給される揚水所

 組合側は旧来の特権を活用し、他会社の介入を排除するなど対外折衝にあたり、越後電気(株)は、第1次工事(大正9年~大正10年)として野尻湖面を旧水門敷土台以下0.6m低下させる工事を実施しました。その後中央電気(株)に改称し、更に第2次工事(昭和7年)で0.6m、第3次工事(昭和10年)で湖面を3m低下させる工事を行うなど、両者は地元の野尻の人々と懇親を深めて援助を受けました。
 なお、旧来の特権とは、江戸時代の家老の小栗美作の頃から野尻湖の水を使用する水利権を中江用水組が持っていたといわれ、一つは野尻湖から流れ出る池尻川の定水の独占使用権、二つ目として水不足の時に野尻湖の水を落とす干ばつ貰水を中江用水組が独占していました。

 昭和9年(1934)に、野尻湖との高低差74.2mの落差を利用した当時の日本では類のない池尻川揚水式発電所(最大使用水量4.17立法メートル/s、最大出力2,340kW)が、中央電気専務の国友末蔵の努力によって完成し、運転が開始されました。
 この揚水式発電所は、関川・池尻川の春の雪解け水を揚水ポンプによって野尻湖に揚げて貯水し、6月~9月上旬までのかんがい期間は、組合側で湖水を利用、9月上旬~12月までは冬期渇水に備えて野尻湖に水を貯水し、1月~3月中旬までの期間は、再び電力側が落水して発電をしています。

昭和9年に運転開始された日本初の揚水式発電所となる池尻川発電所の画像
池尻川発電所(昭和9年運転開始された日本初の揚水式発電所)

 なお、昭和18年(1943)に長野市の上水道の水源として野尻湖の水を利用する計画が立ち上がり、両県で水交渉が行われ、昭和27年(1952)に新潟県、長野県、長野市の三者による調印式が行われました。この協定により、長野市は中江の用水期間6月1日~9月10日終了後、毎秒0.111立法メートルの水を毎年取水していましたが、平成17年(2005)8月に契約期間満了を迎え、野尻湖からの取水を廃止しました。
 池尻川発電所開設以来、電力側は毎年5月31日までに野尻湖を満水にすることとなり、満水位は水位標で+2.273mまで上げることで、かんがい用水を水深2.273m、約977万立法メートルを利用し、電力側は用水分を加え(かんがい用水の取水に従属)、水位標で0m~-4.091m、約1,580万立法メートルを発電に利用することができるようになりました。
昭和14年(1939)、中央電気(株)による板倉発電所が稼働し、上江、中江などの用水の大部分で放流水を利用するようになりました。

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