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【長岡】北越戊辰戦争ゆかりの地を紹介します(7 「大黒古戦場パーク」、「北越戊辰戦争伝承館」、「八丁沖古戦場パーク」)

印刷 文字を大きくして印刷 ページ番号:0053365 更新日:2020年3月27日更新

 1868年(慶応4年)、京都近郊の鳥羽伏見で同盟軍(東軍)と新政府軍(西軍)が衝突し、火蓋を切った戊辰戦争は、関東、東北、北海道へ広がる中で、現在の新潟県においても「北越戊辰戦争」と呼ばれる激しい戦いがありました。
 特に軍事総督、河井継之助率いる長岡藩は、同盟軍としておよそ3か月にもわたる熾烈な攻防戦により新政府軍を脅かし、その戦いぶりは後世にまで語り継がれています。
 北越戊辰戦争ゆかりの地は、直木賞作家司馬遼太郎氏が河井継之助を主人公に執筆した小説『峠』にも描かれ、多くの歴史ファンを魅了しています。
 長岡地域振興局管内を中心に、北越戊辰戦争の舞台となった場所を御紹介します。

大黒古戦場パーク(長岡市)

 今町(見附市)の戦いに勝利した同盟軍は、長岡城下まで一里半(約6km)のところまで戦線を一気に南下させました。
 1868年(慶応4年)旧暦6月7日(新暦7月26日)から始まった大黒(現・長岡市大黒町)や福井(現・長岡市福井町)などにおける戦いは約1か月半に及び、同盟軍・新政府軍ともに苦戦を続けました。
 大黒は新政府軍、北に400mほどの福井は同盟軍の前線基地となり、旧暦6月14日(新暦8月2日)に起きた戦闘だけで、同盟軍は長岡藩士ら9人、新政府軍は薩摩藩士10人余りが戦死しました。一帯で何度も起こった戦闘の戦死者は両軍合わせて100人にも及んだとされています。
 戦いは地域の人々も巻き込み、大黒は13軒の家がすべて焼失、犠牲者も3人出たほか、福井は退却の際に火をつけられて、62軒あったうち残った家は2軒だけだったと言われています。
 戊辰戦争から約70年後の1937年(昭和12年)に住民が「戊辰戦跡記念碑」を建立しました。碑には当時海軍中将だった山本五十六連合艦隊司令長官の書が刻まれています。
 碑のある場所は大黒古戦場パークとして整備されています。

(参考文献:新潟日報社「戊辰戦争140年中越の記憶」取材班 『戊辰戦争140年中越の記憶』 新潟日報事業社 平成21年7月
 稲川明雄 『越後戊辰戦争と加茂軍議』 新潟日報事業社 平成28年9月)

「大黒古戦場パーク」
所在地:長岡市大黒町
交通 :長岡駅大手口からバス25分、七軒町下車で徒歩10分

大黒古戦場パークの写真です
大黒古戦場パーク

記念碑の写真です
山本五十六の書が刻まれた記念碑

「大黒古戦場パーク」についてはこちらをクリックしてください(長岡市のホームページにリンクします)<外部リンク>

北越戊辰戦争伝承館(長岡市)

 大黒古戦場パークに隣接した北越戊辰戦争伝承館では、同盟軍と新政府軍が激しく戦ったこの地域で、住民から見た北越戊辰戦争の様子のほか、住民の心を支えた自然や歴史を紹介し、大きな被害を克服してきた住民の力強い心を伝えています。
 2階のバルコニーからは、長岡城奪還を目指して長岡藩士が渡った、八丁沖(八町潟)を見渡すことができます。

「北越戊辰戦争伝承館」
所在地:長岡市大黒町39-2
交通: 長岡駅大手口からバス25分、七軒町下車で徒歩10分

休館日:月・金曜日(祝日の場合は翌日)、12月1日から翌年3月31日まで
開館時間:午前10時~午後4時
観覧料:無料

北越戊辰戦争伝承館の写真です
北越戊辰戦争伝承館

北越戊辰戦争伝承館のホームページはこちらをクリックしてください<外部リンク>

八丁沖古戦場パーク(長岡市)

 失った長岡城を奪還するために、長岡藩軍事総督河井継之助は、「八丁沖渡河作戦」と言われる奇襲に打って出ました。
 八丁沖は同盟軍と新政府軍との激戦地となっていた大黒(現・長岡市大黒町)辺りから富島(現・同市富島町)周辺にあった大湿地帯で、南北約5km、東西約3kmにわたり広がっていました。
 長岡藩軍事総督河井継之助は、アシやススキが生い茂り、魔物がすむと恐れられていたこの八丁沖を密かに偵察させ、綿密な調査をした上で、青竹で道筋をつけるなどの下準備を行いました。
 1868年(慶応4年)旧暦7月24日(新暦9月10日)午後10時頃、長岡藩兵約700人は闇夜にまぎれ、一列縦隊となり、息を潜めて八丁沖を渡り始めました。
 先導は、貧しいために普段から八丁沖で漁をし、地理を熟知していた鬼頭熊次郎。熊次郎は、対岸の富島に真っ先に突入しましたが、奇襲が成功するまで発砲を禁じられていたため、一発も鉄砲を発射することなく、敵の銃弾を浴びて戦死しました。
 旧暦7月25日(新暦9月11日)午前4時頃、八丁沖を渡った長岡藩兵は大激戦のすえ新政府軍前線基地を占領しました。さらに全軍が4手に分かれ、長岡城をめざして猛進撃し、城の奪還に成功しました。城下では町人が「長岡様のお帰りだ」と喜び、酒樽を出して兵士を歓迎しました。継之助は、大手門から城内に入る際、感激のあまり涙を流したと言われています。
 継之助のこの八丁沖渡河作戦は、敵の防備が手薄な場所を察知し、巧みにその虚をついた作戦として、現在でも高く評価されています。また、この作戦の勲功者であった鬼頭熊次郎の碑は富島町日光社に建っています。

(参考文献:新潟日報社「戊辰戦争140年中越の記憶」取材班 『戊辰戦争140年中越の記憶』 新潟日報事業社 平成21年7月
 稲川明雄 『風と雲の武士』 恒文社 平成22年12月
 長岡市観光企画課 『戊辰・河井継之助ゆかりの地ガイドブック』)

「八丁沖古戦場パーク」
所在地:長岡市富島町
交通:長岡駅東口からバス25分、富島下車で徒歩3分

八丁沖古戦場パークの写真です
八丁沖古戦場パーク

 

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