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令和4年2月定例会(請願第1号)
第1号 令和4年2月16日受理 総務文教委員会 付託
翡翠を新潟県の石に指定することを求めることに関する請願
請願者 翡翠を新潟県の石にする会 会長 高瀬吉洋
紹介議員 斎京四郎君 中村康司君 宮崎悦男君 小島隆君 桜井甚一君 小野峯生君 石井修君
(要旨)翡翠(ひすい)は、春の新芽を思わせる鮮やかな緑色、光をほのかに通す半透明感など、不思議な魅力により、遙か古来の縄文時代から珍重され、勾玉(まがたま)や宝飾品などとして私たちの生活に密接に関わりのある貴重な石である。
5億年前に大陸の地下深くに生まれた翡翠は、新潟県最古級の岩石であり、かつて新潟県の大地の一部がプレート境界に位置していたことを物語るものである。日本国内においていくつか産地があるものの、良質で美しい石の採集が可能なのは、新潟県産のみであり、持続可能な利活用と適切な保護が望まれている。
世界最古の翡翠文化を代表する翡翠製の玉類(翡翠加工品)は、奥三面遺跡(村上市)の多数の玉類、城の山古墳(胎内市)の勾玉、坪之内遺跡(柏崎市)の県内最大の勾玉、耳取遺跡(見附市)の県内最大の大珠、岩野原遺跡(長岡市)の二つ孔の大珠、長者ケ原遺跡(糸魚川市)の大珠など県内各地の遺跡から発見されており、糸魚川をはじめとする上越地方で発祥した翡翠の加工は、長岡、加茂、新発田などへ拡大し、新潟県内各地で加工されるようになった。さらに青森県の三内丸山遺跡など、世界遺産の遺跡からも発見されているように、北海道から沖縄まで日本全国に広がった。このような日本列島各地への伝播は、最古級の日本海交易を示すものである。
縄文時代から利用されていた翡翠は、奈良時代には使われなくなり、人々から完全に忘れ去られた。その後、早稲田大学校歌「都の西北」をはじめ多くの校歌作詞や良寛の研究で知られる糸魚川の文人相馬御風などにより1935年に翡翠が再発見されるまで日本には翡翠が産しないとされており、昭和初期までの考古学者の多くは、遺跡から出土する翡翠は海外から渡来したものと考えていた。
日本一の翡翠の集積地である本県は、2か所の集積エリアが国の天然記念物やユネスコ世界ジオパークに指定され、翡翠の原石が見られる場所として、県内外から観光客が訪れている。緑のみならず、薄紫、青、黒、白などの色の種類が豊富で、かつ多様性を有し、観光資源としても大いに期待される「翡翠」を新潟県の石にされるよう、令和2年3月に「翡翠を新潟県の石にする会」を発足させ、コロナ禍にもかかわらず同4年1月現在42,892名の賛同を得たことから、今般、会の総意として請願を提出するものである。
ついては、貴議会において、42,892名の賛同者の意を汲み、「翡翠」を新潟県の石に指定されるよう配慮されたい。