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江戸から明治にかけて北海道(蝦夷)と大阪(大坂)の間を、荷物を売買しながら往来する北前船が胎内市にも寄港していました。
寄港地に息づく北前船の魅力を訪ねる記事を掲載します。
(図)北前船航路図(胎内市教育委員会作成)
船名:吉祥丸 作者:絵馬藤(えんまとう)
明治3年細野亀多六奉納(胎内市荒井浜塩竃(しおがま)神社蔵 胎内市指定文化財)
船絵馬制作を依頼するのは、船に詳しい船主や船頭なので、絵師が少しでも簡略した絵を描くと、依頼主からはすぐに「自分の船と違う」とクレームがつきました。そこで、江戸時代後期に船絵馬を専門とする絵師集団(吉本派、杉本派、絵馬藤(えんまとう)派など)が大阪で登場し、以後大阪が船絵馬制作の中心地となって、新潟をはじめ全国から制作依頼を受けました。
船の詳細な形、船の大きさを表す帆の反数(※)、乗組員の表情などが、細部に至るまで正確に描かれ、そのため船絵馬は単なる絵画ではなく、現在の私たちが当時の船の構造を知る一級の設計図であり、また、乗組員の服装や髪型などから当時の人々の様子を知る重要な民俗資料といわれています。しかし、葛飾北斎をはじめとする浮世絵師たちが描く北前船の絵が高く評価されたのに対し、船絵馬師の描いた絵は、昭和に入るまで美術的な絵画として評価されることはありませんでした。
胎内市に現存する船絵馬の作者をみると、桃崎浜の荒川神社に奉納された船絵馬のほぼ全てが江戸末期から活躍した吉本派の作です。一方、荒井浜の塩竈(しおがま)神社に奉納された船絵馬の多くは明治中期に活躍した絵馬藤派の作で、「ウルトラマリンブルー」などの輸入絵具が使用され、色鮮やかに描かれています。
文責 胎内市生涯学習課 文化・文化財係
※帆は一定の幅の布をつなぎ合わせて作られていた。つなぎ合わされた布の数を反数といい、船の大きさを知ることができる。