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【巻】信濃川大河津分水路近くにある熊森土地改良区を紹介します

印刷 文字を大きくして印刷 ページ番号:0419622 更新日:2021年10月26日更新

 熊森土地改良区は、小高い山を掘削して信濃川を日本海に分水した大河津分水路近くの信濃川周辺で、農業用施設の維持管理などを行っています。

ほ場から眺めた本川橋の写真

 そんな熊森土地改良区は、信濃川に架かる色鮮やかな本川橋(もとかわばし:アーチ橋の一種で県道見附分水線の橋、写真中央上)付近から信濃川下流の堤防近くにある農地を所管しています。

横田切れと大河津分水路

 熊森土地改良区(組合員396人)は、1896年(明治29年)7月22日に、大雨によって新潟県の広域で発生した水害の際、当時の信濃川の堤防が決壊し、「横田切れ」として人々の記憶に刻まれることとなった横田などを含む地域で、田(188.5ha)、畑(21.0ha)を耕作するための施設(揚水機場など)の管理等を行っています。  

 新潟県の越後平野では、江戸中期(1700年代前半)からの長きに渡って、度重なる水害の防止のために、信濃川が日本海に近接する大河津の地に、水路を開削するための要望を江戸幕府に対して何度も繰り返してきましたが、幕府が要望を聞き入れることはありませんでした。

 その後、明治の初め頃に明治政府への要望が受け入れられて、ようやく分水路の開削が始まりました。しかし、信濃川の河口にある新潟港への流量が減少して、水深が浅くなるなどの理由から、この開削工事もまもなく中止されてしまいました。

 そのような中で起きたのが「横田切れ」でした。写真は、横田切れの起きた信濃川の旧堤防付近に建立されている横田開拓記念碑です(記念碑は、旧信濃川河川敷に建立されています)。

横田切れの地に建っている横田開拓の記念碑の写真

 

 このときの水害の範囲は、信濃川の河口付近までの広範囲となり、ひどいところでは、浸水が3ヶ月ほども続いたようです。このような「横田切れ」を契機として、近代の土木技術を導入し、13年の歳月と述べ1,000万人の労働力を投入して、1922年(大正11年)に通水したのが、大河津分水路です。

 次の写真は、信濃川大河津資料館にある大河津分水路の模型です。左側に流れている川が、現在の大河津分水路で、上に向かって流れている川が、現在の信濃川です。

大河津資料館に展示されている大河津分水路の模型の写真

給水と排水(土地改良施設)

・堤防の先にある信濃川から水を取水し、写真のような揚水機場を通じて給水しています。

揚水機場の写真1揚水機場の写真2 

・揚水機場から送られてきた信濃川の水は、写真のように給水されています。

給水栓その1給水栓その2

・熊森土地改良区では写真の施設(道金排水樋管)を通じて、自然流下により、一級河川信濃川水系の中ノ口川に排水しています。

排水施設の写真

所管区域

 熊森土地改良区の所管区域は、大河津分水路付近から写真の中ノ口川水門付近までの信濃川左右岸周辺です。※信濃川は中ノ口川水門の付近で、信濃川と中ノ口川に分かれています。

中ノ口川水門の写真

 農地側から見た中ノ口川水門の様子

中ノ口川水門の写真2

 写真の風景は、大河津分水路にほど近い場所から熊森土地改良区の所管する農地を一望したものです。写真の奥の方に、上記の中ノ口川水門が設置されています。 

稲穂が実っている様子の写真です

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